「リハビリとアンクル・ウエイト」

腰の手術後1ヶ月を経過した。もう2週間も前からは漸く一日10kmを歩いている。更に「80歳のエベレスト登山」に触発され、「片足1kgのウエイト」を足首に付けて歩いている。これまで足の運びが非常に低く、地面スレスレだったので、ちょっとした突起物でも転びそうになっていたが、ウエイトを付けたら、どうしても足を上げないと歩けないので、逆に足が高く上がって歩けるようになった。思わぬ効果だった。あとはダイエットだけだな。

私は年間約300冊以上の本を読んでいる。その大半が「時代小説」と呼ばれるものだ。そんなことから「江戸時代」が比較的現代にも近く、また人々の様々な暮らしが分かるという点でも面白く、読みながら色々と調べると更に面白みが増してきた。そこでこんなシリーズを書いている。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?19」
「南北町奉行所の同心」
町方の同心というと「紋付き羽織」の裾を内側に折り曲げて帯に挟む独特「巻羽織」という姿をしていた。理由は「早く走る時に羽織が邪魔になるから」ということらしい。但し彼等は「着流し」で「袴」は履いていない。なぜか?といえば、「同心」は武士でも一番下っ端の町奉行所に雇われた「足軽」だったからだという。足軽は正式には武士とは認められておらず、従って袴を履くことが許されていなかったという。いわば「準武士」みたいなもので「町人」ではなく一段上だが、決して武士ではない者だった。また「同心」とは南北町奉行所にそれぞれ約120名いて、所謂今の刑事のようなものだった。だが、武士階級からは「不浄役人」と見られ、一段と貶められて観られていたらしい。同じような立場だったのが「中間(ちゅうげん)」で武家に雇われている間は一応武士扱いなのだが(勿論袴などは履けない)中間を辞めればただの町人となった。さて「同心」だが、最下層の武士たる「足軽」の身分だから、幕府から与えられる家・熄ュない。「30普A二人扶持」だったそうで、年俸が30俵の米で、別途二人扶持は二人分の米が一日10合(1升)分支給されたというから、本当に貧乏だったようだ。ではこれらの合計「30俵2人扶持」は、石高に換算してみると、30浮ヘ12石、二人扶持は3.55石で合計15.55石(大体現代の重さに置き換えると米、約2332kg)だからこれは可哀相な位の貧乏人だ。古地図を観ると「組屋敷」として同心達は八丁堀周辺に「拝領地」(約100坪ほど)が与えられていて、その庭先に建物を建てて、「また貸し」していたようだ。但し貸す相手は「儒者、医者」等だったので八丁堀には儒者、医者が多かったと言われている。家賃を臨時収入としていたようだ。さて南北町奉行所には、「与力25騎、同心120人」がいたといわれている。その中でも「定町廻り」6人、「隠密廻り」6人、「臨時廻り」2人が花形だという。その他、橋廻りや深川廻り、積んだものの高さを測るもの、記録係りもいただろうし、まあ役所で町奉行所というのは「行政、司法、警察」を何でも兼ねていたから色々な職種もあったらしい。

「袴」の話し
町方同心が穿けなかった「袴」とは正式な時に使用する服装だが、だから現在でも和装の「結婚式、卒業式」にも使われているのだが、普通の袴ではなく、「たっつけ袴」というのがあり、これは膝から下、袴の先が絞られているものだ。だから動き易い。旅する時などに使用したらしい。テレビの「水戸黄門」の黄門さんが穿いているのがそうだからお分かりになるだろう。また武士が旅する時に使用した「野袴」というのは、裾の部分約10cmほどが「黒い帯状」になっていて、汚れを防いだらしい。「仙台袴、小倉袴」等は布の産地の名前を示す袴だ。

「旅姿」
ついでに町人の「旅姿」はこれもテレビの黄門さんの付け人の「助さん、格さん」たちの姿を思い出してもらいたい。単衣の着物の後の裾を折り曲げて帯に挟む「端折り」というスタイルで、「手甲」や「股引」、「脚絆」が基本形だ。手ぬぐいで被り物にしたり、或いは菅傘を被ったりして旅をしたという。足元は勿論「草鞋」履きだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。