なかなか訪れない本格的な梅雨の雨だが、それでも道端では「紫陽花」が咲き始めている。雨が少ないせいか、色艶には欠けるが、やはりこの時期には紫陽花の花が咲かないと季節感が湧かない。
私は年間約300冊以上の本を読んでいる。その大半が「時代小説」と呼ばれるものだ。そんなことから「江戸時代」が比較的現代にも近く、また人々の様々な暮らしが分かるという点でも面白く、読みながら色々と調べると更に面白みが増してきた。そこでこんなシリーズを書いている。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?20」
「芝居小屋」
江戸の歌舞伎は「江戸三座」と呼ばれる「市村座、中村座、森田座」が「官許」の芝居小屋で、それ以外は所謂「無許可の芝居」だった。江戸三座はお金持ちの人たちの娯楽であり、その他の芝居小屋は庶民の娯楽だったという。三座は夜明けから夕暮れまで一日中公演されていたが、普通の芝居小屋はもっと短く安いものだったらしい。まあ悪者、女形、立ち回り等があり「勧善懲悪」「人情物」であれば喜んで庶民は観たらしい。これは今でも変わらないが。
「武士は恩と忠義」
武士は「主従関係」である「君主」とは「忠義」によって結ばれている。君主の恩を従である武士は忠義で持って返す。だから仕える君主から「死ね」と言われれば喜んで?「切腹」する。実に恐ろしい話しだ。君主の恩とは「俸・vをもって雇ってもらったことだと考えればいいか?現代の「雇用関係」とは違うが、雇い主である君主の命令は絶対であり、自らの命をもって奉公するという考えなのだろう。「滅私奉公」とはよく言ったものだ。
「江戸の朱引き」
「江戸市中」という概念は地図上に「朱引き」という線引きで示されていたという。大体今の「山手線」の内側だと考えればよいらしい。但し、18世紀始めになって深川も非常に発展してきたので江戸市中に加えられた。江東区墨田区といった「大川」の東側が追加されたと考えればよいだろう。この「朱引き」が「江戸市中」となっていたが、その内側に更に「墨引き」として黒い線で描かれていた範囲を「南北町奉行所が管轄する範囲」だったという。「朱引き」は北は「千住宿」、「板橋宿」、西は「内藤新宿」、南は「品川宿」と「五街道」の宿場町を囲んでひかれていた。「千住は日光街道」、「板橋は中山道」、「新宿は甲州街道」、そして「品川は東海道」の最初の宿場町だった。
「犯罪と刑」
犯罪を犯すと、罪の大小によっては、刑は「火あぶり」「磔獄門」「斬首」「遠島」「敲き(たたき=ムチ打ち)」と色々あったらしいが、「江戸10里所払い」という罰があったらしい。基本的には「江戸四方10里から出ていろ。住んではならない」ということらしいが、これなどもっとも軽い罰のほうだったのだろう。実際には「朱引き」の外ならば住んでも良く、また旅姿ならば旅の途中と言うことで江戸市中も歩けたらしい。ところが盗みは「10両盗めば死罪」だというから怖い。たった10両とはいえ、今の約100万円で死罪だからね。今ならば、死刑続出になってしまう。「火付け」は勿論「火あぶり」だったという。小伝馬町の牢屋敷には仕置き場があり、そこで罪人は斬首されたが、その場所を「土壇場」といったらしい。土壇場で無実が分かり、助かる人もいたことだろう。ここで罪人の死体を使っての「刀の試し切り」も行われたらしい。