「函館の八幡坂」

7月6日付け日経新聞朝刊「NIKKEIプラス1」の「何でもランキング」で取り上げられたのが「坂」だった。
「一度は訪れてみたいあの坂」としてランキング一位になったのが函館の「八幡坂」だった。函館山の下から港に向けての270mの真っ直ぐな坂だ。両側の街路樹の間に青函連絡船摩周丸が見える景色に人々が魅了されるそうだ。「日本一の坂」は「海と空へと一直線」が売り物だとか。私も先日歩いてみた。登りはちょっときつい感じがしたが、車の通行も少なく、港と市街地が見え、なかなかの坂でした。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?22」
「支配違い」
江戸時代の社会はある意味、「独立国家(藩)の連合体」だった訳だから、同じことが江戸でも言えた。大名はそれぞれ「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」と幕府より土地(拝領地)を与えられていたが、これら屋敷の中は「自治権」があったから、町方(与力、同心=警察官)の立ち入りは出来なかった。今の外国の「大使館」の「治外法権」のようなものだ。同じことは「寺社(神社仏閣)」も同様であり、「寺社奉行」の許可がなければ町方の役人は犯罪捜査に入れなかった。これを「支配違い」と呼ぶ。同じ江戸の中で、大名を監督(不正がないかを探索)する「大目付」、旗本、御家人を管轄する「目付」、そして寺社を管理監督する「寺社奉行」、一般市民には「町奉行所」が対応していて支配形態は複雑な形になっていた。まあ、それぞれが警察の役割を担っているが、担当が違う、支配違いということになる。更に自治権のある藩(独立国家)の連合体の上に君臨していたのが「徳川幕府」だったのだ。それも京都の「朝廷」から政治を任せられた「征夷大将軍」という「錦の御旗」を頂いていただけで、実態は連合体の盟主ということだった。大坂城が落城した後、戦らしい戦があったのは、「天草の乱」だが、これなども幕府からは旗本が大将格が出て行って、実際の戦いは地元九州の諸大名が兵士を派遣して、連合軍として切支丹と戦った。別に将軍が出て行って戦った訳でもない。幕府の領地は「直轄地」として「天領」と呼ばれ、幕府の役人である「勘定奉行」の差配下にあり、「代官」を派遣して管理し、年貢米が主な収入だったから、普通の大名と支配形態は余り変わらない。また、「旗本」も幕府より領地を与えられていて、同じく代官を派遣して年貢を得ていた。「御家人」と呼ばれる旗本より一段と低い身分のものは、天領からのあがりを幕府から与えられていたので「給料」と同じだった。だから幕府は将軍を頂点とする「サラリーマン組織」だったといっても過言ではないだろう。

「江戸の面積と人口比」
さて、それでは江戸にはどのような人たちがどの程度住んでいたのか?ということだが、享保10年(1725年)というから八代将軍吉宗の時代だが、凡そ「江戸には100万人」の人がおり、その内、武士が66%、町人が12?13%、寺社が15%、その他6?7%だという資料が残っている。土地の面積では、「武家地が6割、町人の町屋が2割、寺社がこれも2割」ということで、圧倒的に武家の町が江戸だった。当時の「世界の大都市は、ロンドンが80万人、パリが70万人、北京が100万人」とだったと言われている。アメリカなどはまだ独立前だから、多分ボストン辺りが大都市だったのではなかろうか?驚くのは明治初期、廃藩置県が行われると地方から来ていた武士たちは帰国してしまうから、「東京」の人口は激減して60万人程度になってしまったらしい。その後、新政府が発足して徐々に旧江戸、東京は発展していくのだが。因みに18世紀初頭は大坂・京都がそれぞれ30万人、名古屋が12万人程度の人口だったらしい。

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