「中川船番所」

江戸時代、「交通の要衝」として栄えていた内の一つが「中川と小名木川」の交差点だった。江戸川と荒川から中川を通り、そこから江戸の中心部へ小名木川を経て大川(隅田川の下流部分の呼び名)へと入ってくる水運が重要な物流の拠点だった。そこに怪しい船が来ないかと目を光らせていたのが「中川船番所」だ。場所は小名木川と中川の分岐点。船の通行を見張る、今で言う「交番」のような見張り所だった。味噌、醤油、米、野菜等が北関東や東関東から運ばれ、江戸の庶民に供給される主要交通路だった。「船手奉行」というのがいて管理監視していたという。江戸と言う100万都市の需要を賄うためだから相当の物資が運ばれただろうと想像出来る。恐らくひっきりなしに船が通っていたのだろう。今はそんな面影は全くないが。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?31」
「刻み煙草」
キセルに詰めて吸う刻み煙草だが、江戸時代安い刻み煙草を「丸八」といったらしい。その意味は安い煙草はきちんと紙にも包まれてなく、今川焼きみたいに丸く、刻みを集めて紙の帯がかけてあるだけだったという。その値段が一つ8文だったから「丸八」といったという。

「火うち箱」
江戸時代、家庭で火を付ける、火を起こすには、「火うち箱」から「火口(ほぐち)、火打石、火うち鎌」を出す。「火うち鎌」は小さな櫛がたの板に、鉄片がはめ込んである。石英の火打石を鉄の部分に打ちつけて、発した火を火口に移す。「いちびの殻」を焼いて乾かした火口は燃えやすい。それを薄い木片の端に硫黄を塗った付け木へ更にその火を移し、灯心や蝋燭に付けた。行灯や灯籠に付けるのにもこれだけの手間が掛かった。

「家」
江戸時代は「家」というものが非常に重要だった。侍の家でも町人でもそうだが、「家」を継ぐということが当たり前で、血筋を重視はするものの、「家名」のほうがもっと重要視されていた。だから「世継ぎ」がいない場合は「養子」が求められた。武家の場合、家録は先祖の功績によって与えられたものだが、それは「家」に対して与えられたもので、世継ぎがいないとなると「家名断絶」になりかねないから、養子で後を継いだ。町人でも息子がいないか、出来が悪いと娘に優秀な婿を向かえ、家を継がせた。だから重要なのは「家」なのだ。後継ぎを作るために「妾」というのはある意味当たり前だった。子種を残すということが重要だったから、「妾」「側室」は必要だったのだ。以前にも書いたが、江戸時代には「妾屋」という商売があり、妾を斡旋していたという。氏素性の分からない女性を妾にする位ならば妾屋に頼んでその辺の心配のない女性を斡旋させたとも言う。これは武家も町人も一緒だったらしい。

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