「水俣へ」

今年初めての国内旅行「水俣へ」
早朝の羽田を発って福岡空港に着くと、そこは雪が舞っていた。寒い。全国的に寒波が日本列島を襲っていたが、福岡は寒かった。九州新幹線で「新水俣」へ行く。食事もせずに行ったのだが、そこは何もない駅だった。タクシーが数台客待ちしているだけで食事する場所もなかった。今日の目的は「水俣病資料館」へ行くこと。実は私はこの水俣病を題材にした小説を書こうと一時期思っていたことがあった。結局出来なかったが、一度はこの資料館を見ておきたいとずっと思っていた。新水俣からバスに乗った。ところが財布を見てみるとお札は一万円札しかなかった。困った。仕方なく降りる際に運転手さんにその旨伝え、帰りの便で支払うと言ったら、その帰りの便も自分が運転するあら、その時に払ってくれという大変親切な回答を得て、バスを降りた。資料館は水俣病がどうやって起こされたか?チッソという会社がどう対応したのか?水俣市は?熊本県は?国は?といった実態が詳しく説明されていた。被害者の悲惨さが一番堪えた。最終的には一万人を超える人たちが水俣病だと認定された。もともとチッソはアセトアルデヒドを造るために水銀を流したらした。それが水俣湾に流れ込み、そこに住む魚介類を汚染し、それを食べた人たちに水俣病をもたらした。その海は今埋め立てられて、公園になっていた。海の向こうには天草の島々が美しく観える。たった40年前の出来事なのだが、忘れ去られようとしていた。この資料館を観て、私は中国を思い出した。ニュースで伝えられる中国の環境汚染は正にこの水俣での出来事の再来ではないか?工場は汚水を垂れ流しし、空気を汚染しているのは「公害」というのが日本で初めて使われたこの水俣と全く一緒の光景だろう。さて、資料館で一万円を両替してもらい、バスの運転手さんにお礼を言って支払いをすませた。田舎だから親切な運転手さんでした。博多に戻る。住吉神社、櫛田神社を参拝して、いつも行く「もつ鍋の店、七山」に行き、もつ鍋を堪能した。博多は随所に「黒田勘兵衛」の旗や看板が掛かっていて「黒田勘兵衛ブーム」真最中だった。NHK大河ドラマの主人公はその後、徳川時代にはその子孫が、福岡藩の藩主になり、幕末まで続いたという歴史があるのが福岡だからだった。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?37」
「黒船」
アメリカのペリー艦隊が江戸湾に入ってきたのは1854年7月のことだった。「太平の眠りを覚ます蒸気船、たったしはいで夜も眠れず」と江戸庶民が驚いたとの川柳の記録もある幕末最大の出来事だった。真っ黒の船だったので「黒船」と人々は呼んだ。ところがこの船、「木造船」だったというのを知る人は余りいないだろう。鉄の船が軍艦の一般的になりつつあった時代に木造船をアメリカは送り込んできた。それも2隻は帆船、2隻が外輪船の蒸気船だったから、かなり遅れていたものだった。それに驚かされた日本人。但し大砲は60門以上積んでいたから、攻撃能力は凄いものがあった。ではなぜ黒く見えたのか?それは「タール」を防腐剤として船体に塗っていたから黒く見えたのだった。決して鉄船ではなかった。勿論幕府はオランダからの通報でペリーが来ることは事前に知っていた。だからといって対応策が打てたという訳ではない。

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