「礼文から観た利尻富士」

「礼文から観た利尻富士」
本名は「利尻山」通称は「利尻富士」。島自体が火山群からなっていて利尻富士以外にもたくさんの小さな噴火口があるのが「利尻島」だ。最後の噴火は8000年前と推定されるというが、海底火山が次々と噴火してこの島を形作った。そしてその姿の美しい利尻富士が今目の前にある。実に美しい山だ。「日本百名山」の最初の山がこの利尻富士だという。1700m級の結構高い山で麓から登ると往復で8時間近く掛かるらしい。昨年8月末に来た時には雲で見えなかった山頂だが、今年は3日間とも姿を拝むことが出来た。この山には「万年雪」がある。それも南側の斜面にあるから不思議だ。日本海側からの雪と風が万年雪を生むのだろうか。冬には日本海が荒れるので稚内からの船が欠航することが多いためツアーは組まれていないという。1?2mほどの雪が積もるという小さな島での生活はやはり厳しいのだろう。ところで利尻も礼文も火山の島なのだが、それぞれ火山帯が違っているという。本の数キロしか離れていないのに不思議なことがあるものだ。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?58」
「駕籠」とは
武士専用のは「乗物」、町人用のは「町駕籠」、宿場や街道を往来するのは「道中駕籠」と呼ばれていた。江戸のはじめ頃は、庶民が駕籠に乗るのを禁止されていたが、1675年(延宝3年)には町駕籠300挺の営業が許可された。1711年頃には1800挺となったという。江戸時代の人の基本は歩くことで移動したが、段々駕籠が多用されるようになってきたのは生活水準が向上したからだろう。庶民にもゆとりが出たことが町場での駕籠の普及に繋がったのではなかろうか。日本人は馬と牛を家族の一員のようにして暮らしたから、牛を去勢して運搬に使うということをしなかったという。結果、歩くことが陸上での移動手段となってしまった。馬車も牛車の殆ど利用されなかった不思議な国「日本」でした。

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