「さいたま歴史研究会3」
前2回は、庄内は鶴岡の大商人の奥さん「三井清野」さんが江戸へやって来たまでをお話ししたが、今回はいよいよ目的の伊勢を目指すことになる。東海道を上るのだが、2箇所「関所抜け」を行っていることに驚かされる。まずは「箱根の関所」、ここも小田原の手前、国府から北上して伊勢原、富士吉田、山中湖を経て三島の宿へと遠回りして関所を抜けていた。箱根越えならば8里をなんと42里も遠回りしていた。川も渡るのが大変だったようだ。基本的に橋がないから人足の肩に乗って渡る訳だ。また浜名湖の先にある「新井の関所」もこれまた遠回りしていた。東海道ならば12里を、これまた32里も掛けていた。当時の女性の旅は関所では厳しく詮議されたからだろう。「入り鉄砲に出女」と言われていて、人質の大名家の女たちを逃がさないための方策だった。さて清野さんは伊勢から奈良、大坂、京都、琵琶湖を経て金沢経由で鶴岡に戻るのだが、その日程は旧暦4月22日に品川を出て、5月9日に名古屋、11日に津、15日に伊勢、28日に奈良、6月2日に堺、3日に大坂、5日に京都、20日に彦根、22日に福井、24日に金沢、29日に高田、7月11日に漸く鶴岡に戻った。なんと出発して108日間、移動距離は580里(約2274km)だが、これは地図の上の話しで実際はもっと歩いただろうし、観光もしているのでそれらは含まれていない。当時の人の旅姿は実は女性は普通の着物の上に汚れてもよいように浴衣を羽織って歩いたという。汚れたら浴衣を洗い、また着るので下の着物は汚れないという合理的な考え方だったようだ。さて費用だが、私の推測では多分50両、今の価値で言えば500万円は掛かったと思う。3ヶ月半で500万円、お供の男性を2人を含めてだから、まあそんなもんだろう。勿論この中には買い求めたお土産も含まれていた。お土産は買うと直ぐに宅配便で鶴岡に送っている。だから土産は持ち歩いていない。