「数奇な運命を辿った水戸徳川家の3兄弟」

「さいたま歴史研究会―34」
「数奇な運命を辿った水戸徳川家の3兄弟」
幕末の水戸徳川家にいた3人の兄弟は驚くほどの運命を辿った。人の先行きとは全く分からない運命だった。
まずは第9子の「慶喜」は、水戸家から御三卿の一橋家に養子に行く。その結果第15代将軍になり、大政奉還をしてしまう。更に鳥羽伏見の戦いで負け、大坂城から江戸に逃げ帰ってしまうという運命を辿る。そして恭順して寛永寺から水戸へ、更に駿府(今の静岡)へと隠居、恭順生活を送ることになる。
一方、第18子の「昭武」(あきたけ)は、本来は会津の保科家に養子に行く予定だったのだが、兄が将軍となったため将軍補佐となるために。海外研修として、パリ万博に代表として渡航することになる。
そしてその代わりに第19子、弟の「喜徳」(のぶのり)が会津に養子に行くことになった。(写真:A1)
慶応4年2月(旧暦)京都所司代を勤めた養父の松平(保科)容保は討幕の目玉にされて、幕府崩壊後は会津に戻り蟄居隠居した。従ってこの時点で喜徳が何と13歳で会津藩の藩主にさせられた。そして同年9月会津は破れ、新政府軍に降伏し、彼は久留米藩に永預となる。
さて、昭武は慶應3年(1867)ナポレオン3世に招かれ、パリに向かう。この時の随行員の一人に「渋沢栄一」がいた。(写真:A2)
1867年2月15日、横浜を出発し、上海、香港、サイゴン、シンガポール等、西洋文明が浸透している国々を見て驚きを隠せない派遣隊だったという。これらは渋沢の「航西日記」に記されていた。更にセイロン、アデンを経てスエズに着く。また運河は掘削中であり、汽車でアレクサンドリア、地中海ではシシリー島を経由して、マルセイユに着く。
スエズの車中でもめ事が起こった。汽車の窓ガラスを知らない日本人は蜜柑を食べた時、皮を外に投げた。ところがガラスがあり跳ね返ってしまった。それが外人客に当たり大ごととなり喧嘩騒ぎとなったという。
横浜からマルセイユまで48日の旅だった。ここで初めて記念写真を撮った。(写真:A3)
勿論中央に座っているのが昭武で、後列左端が渋沢、渋沢から3人目が医師の高松という人物。彼が最新式の西洋医学の手術方式を持ち帰った。またオランダ語、英語、フランス語が出来たという。マルセイユではツーロン軍港を見学して、この経験が後の横須賀の軍港と造船所へと繋がる。
マルセイユで1週間過ごし、リヨン経由でパリに向かう。パリでは当初は「グランドテル・ド・パリ」に宿泊したが、代金が高くて凱旋門近くに部屋を借りる。
一番困ったのがトイレだったという。トイレがどこにもない。当時のパリはお丸で用を足し、それを早朝に道路に流すという衛生状態だった。各戸には基本的にはトイレはなかったという。
そしてエリゼ宮でナポレオン3世に謁見する。日本側は丁髷、衣冠、狩衣、帯刀なので集まった群衆は大変驚く。公式行事は終えて、パリ市内の施設を色々と見学した。名所旧跡は勿論オペラ座の観劇もあった。
いよいよ5月になりパリ万博が開催された。当時まだエッフェル塔は出来ていなかったが、エッフェル塔から東南に広がる公園が会場となった。参加国はフランス、イギリス、アメリカ、イタリア、オランダ、スイスなどが工業製品や武器類を、日本、シャム、清国はそれぞれの国の物を。日本からは幕府が4万7千両を出して、漆器、陶磁器、武具、衣類、金工品、日本画を、商人の清水卯三郎が自費で酒、醤油、茶、人形、屏風、提灯、扇子、鏡、化粧道具、浮世絵などを出品した。一方で佐賀藩は幕府の了承を得て、伊万里焼を出品した。だが、薩摩藩は幕府に無断で薩摩の品と琉球の品を出してしまった。更に名前を「薩州公兼琉球王の使節」とした。これをフランスの新聞は「日本の国王、琉球国王の使節」と報じた。これが現地でもめにもめて、最終的には幕府の品は「大君政府」とし、薩摩の品は「薩摩太守の政府」としたが、これまた「政府」が大問題となる。フランスの新聞は「日本はプロシア(今のドイツ)のように連邦制で、大君(将軍)はその中の有力な一王で、薩摩太守や大名と同じ独立した領主で。大君と大名は同格ではないか」と報じた。
博覧会での日本品の人気では、象牙の細工物、青銅器、七宝焼、陶磁器、蒔絵などが。特に漆器類が一番人気だった。また清水卯三郎は木材で茶屋を造り、柳橋芸者3人を侍らせたという。これが大評判を呼んだという。
その後、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問する。万博と周辺国訪問を半年し、パリに戻った昭武は、留学生として勉強することになる。毎日フルタイムでフランス人家庭教師6名と過ごす。彼らは日本語を全く話せなかった。
その年の年末に日本で大政奉還、王政復古がなされたとのニュースが電報で伝わる。年が明けて1868年には鳥羽伏見の敗戦、慶喜大坂城脱出、慶喜追討令、恭順と事態は刻々と変わり、それらがパリにも伝えられた。
ここで派遣団は帰国を命じられる。昭武もその年の12月16日に漸く横浜に帰国する。
この時、彼はフランス語を完全に習得していた。そして一つ年上だった明治天皇に拝謁し欧州情勢を話した。
さて弟の「喜徳」だが、明治一年11月には罪が解かれ水戸藩主になるが、容保に実子が生まれたため、松平(保科)家に戻り藩主となって、下北(斗南)に流された部下の下に向かう。
明治5年廃藩置県で水戸徳川家に復籍(18歳)、後に常陸松川(大洗町)の松平家2万石を継ぐ。
明治9年、アメリカ万博の御用係として昭武が任命され、アメリカに向かうが、その時に弟の喜徳も同行し、その後パリに留学するが、健康を害して帰国、22歳だった。そして36歳(明治24年)という短い人生を終えた。悲劇の運命を辿った喜徳だった。一時養父となった会津藩主だった容保は明治26年58歳で病没した。
兄の昭武は再度アメリカ経由でフランスに弟と一緒に留学し、明治14年30歳で帰国し、松戸で暮らす。明治43年58歳で病死したが、2度のフランス留学を含め、貴重な経験をした人だったと言えよう。(写真:A4)
慶喜は1913年(大正2年)11月に没した。兄たち二人の趣味は写真で色々と残されているという。比較的老後は恵まれていたと言えよう。
以上、水戸徳川家の3兄弟でした。