「日本の空を飛んだロケット機」

「さいたま歴史研究会―33」
「日本の空を飛んだロケット機」
戦争終了間際にB29撃墜を目的としたロケット機が開発され飛んでいたことを知る人は少ないと思う。実は吉村昭著「深海の使者」(文春文庫)に詳しく書かれているが、昭和18年12月から潜水艦伊29号で100名の海軍軍人がドイツに向かった。その目的は最新型ロケット機の図面の入手だった。19年3月にドイツ占領下のフランスはロリアン港に到着し交渉の結果、小型Me163B型と大型Me262A型の2機のロケット機の設計図と燃料の製法を受け取って帰国の途に就く。シンガポールまで来た潜水艦から巌谷中佐のみ図面を持ち戦闘機で日本に向かい19年7月17日に無事帰国する。しかし潜水艦はフィリピン沖で撃沈された。(注:Meはメッサーシュミト社のこと)
大型Me262Bは陸軍が開発することとし、2基のターボジェットエンジンの双発機を「火龍」と名付け中島飛行機が担当した。一方、Me163Bは海軍が「秋水」と名付けて開発した。これは三菱が担当することとなる。
左はドイツ軍のもの。右はMe163Bの実際の図面で三菱の技術者が戦後まで隠し持っていた。(写真:B1)B1
基本的にはプロペラも水平尾翼もなく、主翼は後部へ流れるように胴部張り付く。尾部から高温高圧のガスを発射して飛び、離陸後車輪は投棄され、1万mまで3分30秒で到達出来、最高速度900kmで7分30秒飛ばすことが出来る。即ち上空ではB29を4分追い掛けることが可能な訳だ。当時の日本にはB29を撃墜する能力があるのは、陸軍の「三式戦闘機」(米軍のあだ名はボロ)と、海軍の「紫電改」に限られた。しかし、1万mの高度を維持するのが精一杯で、最初の一撃しか与えられなかった。それでもB29の装甲は厚く機体に穴を開けるのが漸くだった。更にB29を守るための戦闘機がいた。これがP51で速度580kmだった。紫電改は戦後米軍が自前の燃料で飛ばしたところ、なんと625kmの速度を出せたという。如何に当時の日本軍の燃料が悪かったかが分かる。因みにB29でも576kmだせた。
そのためにドイツの技術を投入して開発されていた秋水だが、最初の訓練は模型の秋水に乗り、グライダーのように滑空して降りてくること。実際にもロケットで上昇して戦闘した後はグライダーのように滑空して着陸することになっていた。パイロットは1万mと同じ条件に低温低圧専用タンクに入り、訓練を受けた。
それでは最終的にロケット機はどうなったのだろうか?
実際の写真が残されていた。場所は海軍横須賀基地内、今は日産自動車追浜工場になっている。20年7月7日のことだ。
パイロットは犬塚大尉で乗り込もうとしている。(写真:B5)B5
いよいよエンジンが噴射し始める。(写真:B4)B4
空中へ向かうロケット機の姿。(写真:B3)B3
(写真:B2)B2
ちょっと順列が違うのだが、実はB3の左上が1番。滑空を始め220mで離陸。
B3の左下が3番、上昇中だ。しかしこの直後エンジントラブルでエンジン停止。
B2の左上が4番、本来は事故の場合は東京湾に落ちるようにするはずだったが、犬塚大尉は機体を大切に地上に戻そうとし、上昇反転させようとした。
B2の左下が5番、エンジン再起動が2度試みられたが失敗。
B3右上が6番、燃料の投棄が始まった。
B3左下が8番、監視塔に右翼端が接触する。
B2左が9番、不時着大破した。翌日犬塚大尉は死亡した。
これらの写真資料は極秘であったはずだが、どうやら米軍に接収された後に日本側に返還されたもののようだった。
米軍の資料によると、B29の日本爆撃時の未帰還数は、19年11月から20年3月までの間で105機、864人だったという。
ドイツが無条件降伏した時、ベルリンに攻め入ったソ連軍とアメリカ軍が求めたのはロケット等の技術者でそれぞれの国に連れ帰ったという。ここから冷戦が始まることになる。これが現実だった。