「母の命日」

「母の命日」
22日は母の命日だ。2005年のその日、私は知床半島の付け根の町「斜里町」にいた。そしてバスで知床に向かっている途中、実家から電話が入り母の死を知った。その1週間前にも実家を訪れて母を会っていたが、あれが最後になるとは夢にも思わなかった。母はその日の朝、起きてこないので迎えに行った甥によって発見された。多分心臓発作だったのだろう。この写真は母が20歳頃のものだ。(写真:母の面影)

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母は裕福な福井の米搗き屋の次女として生まれ、何不住なく女学校を卒業後、志願して軍属となり、昭和18年に危険な船旅をしてシンガポールへ派遣された。現地では事務職として軍務に携わったという。実は母が生まれた後も、実の父親、私のとってみれば祖父の女遊びが酷く、外に二人の認知した子供まで設けていたという。そんな父親を嫌って母は海外に出たのだろう。如何にもまじめな母らしい。
シンガポールで当時父は陸軍主計少尉として勤務していた。そこで偶然母を見初めたらしいのだが、母は父のことを全く知らなかったという。父の片思いだったらしい。終戦、母は昭和21年に日本に帰国、故郷の福井に戻る。すると突然父が実家を訪れ、「母を嫁に下さい」と言って来たという。全く見ず知らずの男性が訪れたのだから当惑しただろう。しかし父は熱心に通ったようだ。やがて父の粘り勝ちになり母は嫁に行く。そして私と妹の二人の子供を授かった。横浜で生活を始めた我が家族は、私も妹も二人とも慶應義塾にお世話になり、無事大学を卒業した。両親は共に教育熱心だった。高校大学共にアメリカンフットボールをやっていた私の試合の大半を父は見に来ていた。母は非常に節制した生活をしていた。二人の子供を私学にやるということをごく普通の家庭だった我が家が行うことはかなり厳しかったのだろう。感謝しかない。