「サムライ 天下太平を支えた人びと」

「サムライ 天下太平を支えた人びと」特別展
両国の「江戸東京博物館」で開催中の「サムライ」特別展に行ってきた。(写真:S1)S1
徳川家康が天下を納めて以来、侍のポジションは変わった。それまでの戦士から官僚になったことだ。依然として二刀を腰に挿して武士としての面目は保っているものの、実質大半は事務系の官僚になってしまった。
これは庶民と侍が一緒に過ごす屏風絵だ。(写真:S2)S2
(写真:S3)S3
(写真:S4)S4
江戸は侍の数が圧倒的に多く、人口の半分以上いたと思われるが、もう庶民と一緒に暮らしている。土地は幕府からの「拝領地」で所謂借り物だ。先手組とか将軍警護の武士団もいたが、大半は事務方、勘定方だ。
基本江戸の町は各帖内での自治が行われていて、もめごとは訴訟を起こすが、それも江戸庶民は町奉行所の管轄だ。少ない奉行所の人々では解決できそうもないから、町のことは町の中で解決するのが当たり前だった。
さて幕末、これが公武合体で江戸に下られた和宮下賜の御所人形だ。(写真:S5)S5
この絵巻物は、江戸の名物の火事の模様とその消化作業を描いている。(写真:S6)S6
(写真:S7)S7
(写真:S8)S8
(写真:S9)S9
江戸の火消しの「町火消」の制度は八代吉宗の時代に大岡越前守の提案により設けられた。
江戸幕府所持の船図鑑だ。皆木造船だ。(写真:S10)S10
(写真:S11)S11
(写真:S12)S12
(写真:S13)S13
(写真:S14)S14
「午砲」と呼ばれるもの。時を告げるために撃った。(写真:S15)S15
(写真:S17)S17
「四斤砲弾」(写真:S16)S16
幕末で世の中は一変したが、その中でもある武士の遺書は面白かった。「死んだら遺体は焼くな、埋めるな、野にさらして犬の餌にしろ」というのだ。
最後は和装した西洋人男女図(写真:S18)S18
文明開化と共に侍は消滅した。
中々興味ある催しでした。