「北部九州の旅、後記」

『J REPORT 2019年7月第4週』
「リタイアメント・ノート 11年1か月目」
「VOL.1117号 SINCE  AUG.12th, 1983」
「北部九州の旅、後記」
壱岐の島では歴史の重みを感じた。太古より文明の通過点であり、大陸からの人間がこの島を通過していったのだ。そこでは農業が営まれ、漁業も盛んに行われ、王国が築かれていた。しかし当時は乳幼児の死亡率が高かったので平均寿命は15歳程度と見られている。「原の辻(はるのつじ)」遺跡からも沢山の幼児の墓が見つかっている。小さな甕棺に入れられたものだった。その後弥生時代から古墳時代になると多くの有力者の墓が築かれた。
また元寇の役では住民の大半が殺された。江戸時代には朝鮮通信使が立ち寄る島でもあった。島には海岸付近の漁業を営む人たちは「浦」といい、内陸部の人たちは、「触(ふれ)」という隣組組織を作っていた。その地名は今も残っている。
鯨の話しをしたが、鯨供養塔があった。(写真:鯨供養塔)鯨供養塔
鯨漁で江戸時代は多いに繁栄した証拠だろう。「鯨一頭、猫太る」とは鯨のお蔭で隅々までその恩恵が生き渡ったということだろう。猫も鯨様に感謝だ。
牡蠣小屋では美味しい牡蠣と地元の焼酎を楽しんだ。(写真:牡蠣小屋にて)牡蠣小屋にて
驚くことに焼酎は壱岐の島が発祥の地だとか。

長崎でも歴史や伝統の長さと、禁教となったキリスト教の影響の深さを感じた。唐船やポルトガル船、オランダ船といった外国の船が立ち寄り、出島や唐人の居留地が設けられ、当時の世界最先端の文明がここから日本に入ってきた。豊臣政権下、長崎は大村氏の領土だったが、大村氏はイエズス会に長崎を寄進してしまった。イエズス会は貿易と同時に布教に励み、商売をしたければキリスト教に改宗せよとしたので、あっという間に商売欲しさに信徒が増えたという。それを知った秀吉は激怒し、キリスト教を禁教とし長崎を直轄地にした歴史があるという。これは徳川幕府にも引き継がれた。
長崎は学問(蘭学)でも医学でも日本国内トップの留学地だった。そしてそこでは禁教による悲しい事件も起こった。しかし明治初頭漸く明治政府が信教の自由を認めると大浦天主堂には続々と信者を名乗る人々が集まって来たという。それだけ隠れキリシタンがいたということなのだろう。私はリタイアした大浦天主堂の前。ここは世界遺産と共に国宝にもなっている。(写真:大浦天主堂)大浦天主堂前にて
また戦時中は原爆の直撃を受け、15万人以上が死傷した。今、長崎は海外の大型クルーズ船も立ち寄る観光地でもある。平和の像の前で記念写真。(写真:平和の像前にて)平和の像前にて
有田では磁器の美しさを再認識した。江戸時代に完成された磁器「有田焼」は、佐賀藩の庇護の元、貴重な品となり将軍家にも献上された。その後幕末から明治にかけてはヨーロッパでの「ジャポニズム」のブームもあり、輸出品として大量に売られた。今、400年の有田の磁器は伝統の技術で更に磨かれていた。ヨーロッパから買い戻された品々にも出会った。そこには貴婦人が裾の広い、丈の長いドレスの裾から中に入れて使用した所謂「お丸」もあった。(写真:お丸)お丸
磁器に魅せられた私。(写真:有田にて)有田にて

博多では丁度、「博多祇園山笠」の季節だった。(写真:博多駅前にて)博多駅前にて
美味しい食べ物にも満足した旅でもあった。お蔭様で少々太りました。
そうそう、長崎では二日目だけ晴れたのですが、その時一斉にセミが鳴き出しました。今年初めてのセミの鳴き声だったそうです。それでもまだ梅雨明けとはなりませんね。