「さいたま歴史研究会―29」
「上野彰義隊・春日左衛門」
この勉強会は「さいたま」出身者を中心にして学ぶもので、今回は幕末の旗本「春日左衛門」のお話しだ。
春日家は南北朝から戦国にかけて北足立地方において、上杉氏、北条氏、太田氏の家臣で、その後江戸で旗本となり、さいたまの中野田村に300石、他の地域を含めて2750石を領していた。
江戸の屋敷は今の飯田橋、警視庁の落とし物係のあるビルの場所だ。(写真:K1)
そして慶応4年に鳥羽伏見の戦いに負けた幕府軍は江戸に戻り、一部の幕臣が集まって「彰義隊」を結成した。(旧暦2月23日)
投票(札入れ)により、頭取に「渋沢成一郎」、副に「天野八郎」が選ばれる。その後、町奉行所の者は逃げ出したので江戸の治安を守るために彼らが起用された。
2月25日には上野寛永寺に滞在していた徳川慶喜の護衛役となる。この間、歴史は西郷と勝、山岡らの会談があり、西郷の出した開城条件が4点あった。江戸城の明け渡し、城中の人数を向島に移す、兵器軍艦の引き渡し、慶喜を備前藩に預けるの4点であった。
その後の交渉で慶喜の預けはなくなり(3月13日)、水戸に去る(4月11日)こととなった。
4月21日、東征軍総督「有栖川宮」率いる薩長軍が江戸市内に入る。しかし、江戸市中で薩長軍は無法を多数起こす。ここで彰義隊の一部が薩長軍と衝突する。
総督府は彰義隊解散を山岡に命ずるが失敗する。
5月3日、「奥羽越列藩同盟」が結成され、薩長軍と戦うことを決議する。(31藩)
5月14日、大村益次郎は彰義隊討伐を決心する。総指揮は大村、正面攻撃軍は西郷指揮の薩摩、不忍池方面軍は肥後・鳥取、谷中方面軍は長州・肥前・久留米・大村、加賀藩邸からの大砲隊は肥前・肥後・伊賀上野の配置。
彰義隊は、隊長・小田井蔵太(御家人)、池田大隅守(池田家分家)の2名。副長は天野八郎、春日左衛門、川村敬三の3名。約1800名だった。討伐軍は総数1万2千人。
5月15日午前7時、薩摩隊が松坂屋前から大砲を撃つ。これを合図に戦闘が始まる。黒門(寛永寺の入口の門、今の上野の坂の一番下のところにあった)で銃撃戦が行われる。(写真:K2)
黒門の地図、人の形は戦死者の位置。(写真:K3)
1日よりの梅雨の雨が続き、泥沼の中での撃ち合い切りあいとなった。
午後1時、黒門陥落。寺院から火の手が。午後5時には彰義隊は北の方角に逃げた。
寛永寺の地図。上の「御本坊」が今の東京国立博物館である。(写真:K4)
戦死者266名、死体はそのまま放置された。遺体移動の禁止が命ぜられた。しかし見かねた三ノ輪円通寺の僧と任侠の神田・三河屋幸三郎らで収容し火葬して埋葬された。7月4日に合同葬営まれる。
その後、彰義隊の生き残りは旧幕府海軍艦隊に合流し約1200名で、仙台で仙台藩兵の一部を加えて北海道に向かう。
その時点では9月には米沢・仙台・会津・庄内も降伏した。
10月19日、旧幕府軍は蝦夷地に上陸し、函館を目指す。10月25日、函館占拠。12月15日札入れで総裁榎本武揚(156票)、副総裁松平太郎(120票)、海軍奉行荒井郁之助(82票)、陸軍奉行大鳥圭介(86票)、陸軍奉行補佐土方歳三(73票)、春日左衛門も43票獲得し歩兵頭となる。(新暦では1月27日)
新暦明治2年4月9日には新政府軍は乙部(江差の北、日本海側)というところに上陸、陸軍は5700名。海軍は九隻の軍艦派遣。4月17日には松前城陥落、旧幕府軍敗退、21日には木ノ内の戦いでも旧幕府軍は破れ、五稜郭に撤退。29日には矢不来の戦いでも破れ、春日左衛門も怪我を負い、その後死亡した。
函館の戦いは連戦連勝の政府軍により追い詰められた旧幕府軍は、5月18日に降伏した。
旧幕府軍の死者は800名前後、政府軍は223名の死者。これで戊辰戦争は完全に終結した。なお、春日左衛門の墓は見つかっていない。
「ミッキーマウス」
東京ミッドタウン日比谷には最低でも週に1回は訪れている。勿論映画を観るためにだ。今、何か知らないが、1階のフロアーでミッキーマウスの人形が沢山飾られていた。(写真:ミッキーマウス)
かなりの人たちが写真に撮っていた。映画館はいつも混んでいます。でも13スクリーンあるから、色々な映画が観られ映画ファンには大変に助かりますね。