「見沼に臨む遺跡」

「さいたま歴史研究会―28」
月一回の歴史研究会は南浦和で開かれている。新潟県村上市出身で現在さいたま市在住の歴史研究家のM氏に講義をお願いしている。主に埼玉県を中心とした歴史の勉強だ。
今回の題名は「見沼に臨む遺跡」だ。私は横浜生まれのハマッ子だし、東京在住なので、今回の勉強からからは「見沼の遺跡から見た日本人の変遷」という観点から内容の一部をご紹介しよう。
見沼は現さいたま市の東部にある窪地だ。(写真:M1=現在の地図と遺跡跡)M1
元々今から6000年前には平均気温が今より3度ほど高く、東京湾がこの辺りまで達していて、その海を臨む台地の縁に旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡群がある。従って、海の産物である「貝」や「魚」、周辺の動植物を採り生活していた。証拠としては「貝塚」が発見されている。(写真:M3)M3
因みに「ハマグリ、牡蠣、シジミ」が貝塚からは見つかっている。そして貝塚は竪穴住居の使われていない住居跡に貝の殻を捨てることで塚状になっていた。
見沼は江戸時代、八代将軍吉宗の時代に、和歌山から来た土木の専門家である井沢氏が将軍の命を受け、この湿地帯を干拓し、水田にしたという。
旧石器時代(30,000年前から12,000年前頃)は冷涼な気候で、まだ見沼は深い谷(30m?)で、石器を利用したナイフや鏃(やじり)で狩猟生活をする人々が住んでいた。(写真:M2=石器、主にナイル類)M2
それが縄文時代前期(10,000年前から)には次第に温暖化し海水が侵入してきて谷は海となり、魚介類が採られるようになった。中期から後期にかけては気候の変化(寒冷化)で海が後退し見沼は湿地低地になる。
2,500年程前に大陸より稲作が九州に伝えられるが、稲作が関東の中央部の見沼に伝わるのは紀元3世紀頃と遅い。この地方には縄文時代の土器が殆ど切れ目なく(前期から後期、そして晩期と)発見されている。従って、常に見沼に人々が定住生活していたことが分かる。私が不思議に感じたのは、というか1、000年以上掛かって、九州からこの見沼まで到達したとすると如何にも遅いという感じがする。どうも稲作は九州から陸路東に伝わると共に、一方では日本海側を暖流に乗って青森地区へ先に伝わったという。青森のほうでは関東より早くに稲作が行われていたというのだ。それが青森から南下したのだろうか?
ところがどうも見沼周辺では縄文時代晩期と弥生時代との間に500年から600年程の間、縄文人がいなくなっていたらしいのだ。どこに行ったのか、見沼にいた縄文人は?遺跡はそういったことを示している。
こうして考えると、縄文時代に日本に住んでいた人たちは、大陸から伝えられた稲作と共にやってきた渡来人の進出と合体し、新しい弥生人となったのだろう。
しかし、それにしても見沼周辺にいた縄文人はどこに消えたのか?永遠の謎だ。そして新しい弥生文化をもたらし見沼に住み稲作を始めた人たちはどこから来たのだろうか?そして見沼に弥生人が現れた頃とは、畿内では統一国家が形成され、高松塚古墳が出来るなど古墳時代に既に入っていたのだ。しかし見沼周辺では古墳は殆ど見るからない。それはそれだけの権力を持った人物が存在しなかったこととなる。まだ未発展の地域だったということか。
歴史の研究は常に謎解きだ。
M先生の話しで面白いのが、縄文人や弥生人の特徴を持った現代人の話しだ。縄文人は腋毛が多く、耳が湿っているという。典型的なのが「吉永小百合」さんだという。そして弥生人の例は、腋毛が薄く、耳が乾いている。これは「岩下志麻」さんだという。ある有名な考古学者の説だそうだ。果たして貴方は、縄文系か弥生系、どちらですか?
土器類について見てみよう。縄文前期の土器。当然模様が刻まれていて縄目模様だ。(写真:M4)M4
縄文中期。(写真:M5)M5
縄文中期。2,200年頃か?(写真:M6)M6
縄文後期後半。(写真:M7)M7
弥生中期後半。(写真:M8)M8
(写真:M10)M10
古墳前期。(写真:M9)M9
古墳時代、鬼高式土器。(写真:M11)M11
土器の変遷を見ていると、縄文時代初めは、円錐形を逆さにしたもので、地面に挿していた。勿論表面は縄目模様である。それが時代を経るに形は多様化していくが、紋はなくなり、単純な線になっていく。口の部分は火焔のような複雑なものになっていく。多分私の意見だが、実用的な物と、祭祀に使う儀礼的な物への発展と分かれてきたのではないだろうか?
いずれにしても歴史を探ることは面白い。