「朝鮮通信使」

「さいたま歴史研究会―25」
「朝鮮通信使」
日本と朝鮮半島の歴史で唯一親密だった時代があることをご承知だろうか?常に日本と半島とは緊張関係が古今より続いていた。室町時代は倭寇、いわゆる海賊が半島を襲った。そして戦国時代の終わりには豊臣秀吉による2度の侵略「文禄の役」「慶長の役」があった。明治時代は半島を植民地化した。しかし徳川幕府の時代はその関係は微妙だったが、良かったといえる。将軍の交代に伴い、朝鮮から通信使と呼ばれる人たちが江戸を訪れていた。いわゆる表敬訪問である。
「通信使」の意味は、「信を通じ合う外交使節団」ということだ。2代将軍秀忠の時代、1607年から11代将軍家斉の時代、1811年の間に12度訪れていた。その通過路は「釜山」から船で対馬、赤間関(山口)、ここから瀬戸内海を渡り、大阪からは淀川を遡り、京都、そこから陸路彦根、大垣、名古屋からは東海道を下った。28か所で宿泊しているが、対馬などは10日から長いと22日も滞在したようだ。また宿泊地では接待が伴った。だから2か月ほど掛けて朝鮮からやってきた訳だ。
そのメンバーは、三使と呼ばれる高位の人たち、「正使」、「副使」、「従事官」、それに通訳として「堂上訳官」「上通事」「次上通事」「小通事」「訓導」や、「製述官」「写字官」「書記」などに、「良医」「れい官(画家)」「馬上才(馬の上で曲芸をする)」、あとは音楽や行列の人々がいた。総勢500人程度らしい。写真は正使か?(写真:C1)C1
幕府はこの接待を九州や東海道の大名に命じた。総額で100万両掛かったとも言われている。今の貨幣価値で1000億円だ。接待のメニューは次々と伝えられ各地で競って接待したらしい。兎に角豪華絢爛な食事だ。私も実際のメニューの置物を見た経験があるが、山海の珍味が並ぶ凄いものだった。余りに豪華で多いので記載するのは省く。まるで竜宮城で出されたような感じだ。
江戸は将軍に謁見する。多分登城の時の絵で回りには町人が見物に出ている。(写真:C2)C2
この写真は「三井越後屋」の前を通る行列だが、実はこれは本物ではない。神田明神の祭礼で朝鮮通信使を真似たものだ。(写真:C3)C3
現代でも通信使の行列を真似て行っているところもある。川越では11月15日の埼玉県民の日に行っているという。(写真:C4)C4
彼らは各地で大人気で、要望されて沢山の書や絵を残している。朝鮮からは「馬具付き馬2匹」「鷹20羽」「虎皮15枚」「豹皮20枚」「貂20」「布多数」「人参30kg」「筆墨多数」が献上された。一方、将軍からは「屏風(狩野派)20」「蒔絵10」「紋服50」とある。江戸では1か月程度滞在した。
特に彼らが感心した景色は、箱根の芦ノ湖超しに見た富士山だそうだ。
日韓で共通の歴史認識が持てるのはこの時代のみだという。残念な話しだが、これが現実だ。