「都バスに新車両登場2」
乗ったバスの雰囲気が何か違う。何が?と思ったら、新型車量だった。
とご報告したが、直ぐに私の見落としを示唆してくれた友人M君。このバスは「FCV」所謂「燃料電池車」だということだ。なるほどそれならば乗り心地もよく未来の自動車の一つなのだろう。東京都も環境に配慮した新車両を導入したんだと感心しました。M君ありがとう。
「さいたま歴史研究会―24」
「太平洋戦争、最後の20日間」(写真:S1)
余り歴史の授業で教わってこなかったのが、戦前戦中の出来事だ。社会人になって色々な本や映画で知ったこともあるが、敗戦直前の日本を改めて学んだ。
「1945年」終戦の年
2月4日=ヤルタ会談(写真:S2)
写真上段に並ぶ3人は、左から「チャーチル」「ルーズベルト」「スターリン」だ。ドイツ敗戦が近づく中、戦後処理として、ソ連の対日参戦を決めて、その代償として樺太、千島のソ連帰属を認めた秘密協定が結ばれた。(これがあるから、北方4島は返還されるわけがないと私は今も思っている)
7月17日から8月1日まで、ポツダム会談が行われた。写真下段では「アトラー英国首相(チャーチルは選挙で敗れたため)」「トルーマン米国大統領(ルーズベルトが死去したため、副大統領が昇格)」「スターリンソ連首相」。
この時、トルーマンがスターリンに「原爆が完成した」と耳打ちしたという。これでソ連参戦が確認された。
7月28日=ポツダム宣言が日本に伝えられる。その内容の趣旨は6点。
「軍国主義の廃止」「連合国による日本占領」「全ての植民地の放棄」「主権の限定」「武装解除」「千層犯罪人の処罰」 注:米国が求めていた「天皇条項」、即ち天皇制を残すという案は削除された。
これに対して「最高戦争指導者会議」は意見が真っ二つに分かれた。鈴木貫太郎首相の態度は煮えきれない。
その中、戦争遂行派は、阿南陸相、梅津陸軍参謀本部総長、豊田海軍軍令部総長の3名、
受諾派は、東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長の3名だった。この時点での新聞発表は「ポツダム宣言を黙殺する」こととした。その理由は、「ソ連の仲介による和解の模索中」「国体護持が不明」「本土決戦を準備していた」ことによった。
鈴木貫太郎内閣。(写真:S3)
集合写真の前列右側が米内海相。その隣が鈴木首相。中段の二人は鈴木首相夫妻。彼は2・26事件で銃撃され重傷を負うが、妻が彼に覆いかぶさり、とどめを防ぎ九死に一生を得た。二人の隣の写真は「東郷外相」。A級戦犯となり病死したが、本来は外交官であり、駐独、駐ソ大使を務めたことが戦犯になった要因か?その隣は「近衛公爵」、ソ連への和平仲介役としてソ連に派遣される予定だった。終戦直後自殺する。
下段左の家は、鈴木首相宅で終戦の日の午後2時に放火され全焼した。右下の人物は木戸孝允の孫で内相。
8月6日=ポツダム宣言後、ここまで何も決められず、日にちだけが過ぎていったが、遂に広島に原爆が投下された。米国はソ連に対抗して極東地域での発言権を得るためと戦争早期終結を目指して行った。
また、この日原爆投下前の午前0時にソ連が満州に侵入した。
「日ソ中立条約」=1941年4月13日に締結されたもので、4月25日発効。5年間の効力を持つが、期間満了の一年前まで破棄の通告が必要。ソ連は1945年4月5日に駐ソ大使の佐藤大使に条約破棄を告げていたが、その効力は1946年4月まではあったのだった。
ソ連の参戦は日露戦争の復讐の意味があった。陸軍兵士158万人、戦車・自走砲5556台、航空機3446機が投入された。一方米国の予想ではソ連参戦がないと、あと18ヶ月戦争は続き、米軍に死者は更に100万人増えると予想していた。この時点で米軍は既に以下の作戦を検討していたという。
「オリンピック作戦」=1945年11月1日開始。九州に50万人以上の兵を沖縄経由で上陸させ、九州全土を制圧させる。順次、中国四国近畿と制圧。
「コロネット作戦」=1946年3月1日開始。関東上陸。九十九里海岸上陸か?
「ブラックリスト作戦」=日本占領作戦。戦後の支配体制。
原爆投下とソ連の参戦により、戦争終結を断行する必要に鈴木首相、東郷外相は傾くが、9日の午前10時からの戦争指導会議では、相変わらず軍人3人が強烈に受諾反対を唱え、4条件を出してきた。それは「国体護持の確認」「武装解除は日本が自主的に」「戦犯処置は自国で」「占領は小範囲、短期間に」と難題を出した。(写真:S4)
左から米内海相(元々三国同盟や日米開戦にも反対しており、受諾派)、左から阿南、梅津、豊田の反対派。反対派は実は軍部の強硬派を押さえられず、反乱の可能性があると考えており、保身を図ったものか?
9日午後2時半より臨時閣議の開催=米内海相は「国体護持」の一条件のみと主張したが、阿南が独断で戦争継続を陸軍訓示として発表した。
9日午後6時半からの臨時閣議=この間、木戸は度々天皇に閣議の状況を説明していた。依然として判断が出なかった。宮中派と呼ばれる4人、高松宮、近衛、細川(熊本藩主の末裔)、重光が天皇の聖断を求めた。
9日午後11時50分に御前会議開催=ここでも1条件と4条件で対立が続く。
10日午前2時半=天皇は「東郷の提案(1条件=国体護持)を採用する」と聖断した。
10日午前中=スイス公使とスウェーデン公使から連合国側に「国体護持」の質問を発した。
12日=米国バーンズ国務長官よりの回答があり、その文中の「subject to」の解釈を巡って紛争。「天皇、政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の権限に(subject to)従属する」とすべきを、「権限の下に置かれる」と約した。また「最終的の日本の政治形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定する」とも書かれていた。この誤訳?異訳?は天皇が奴隷のように扱われると危惧、解釈したことにより意図的に曲げられた。この時点でも軍人3人は徹底抗戦、本土決戦を譲らない。
13日=最高戦争指導会議、臨時閣議が開かれるも反対派、受諾派の溝は埋まらない。
14日午前10時半=御前会議開催(写真;S5)
反対派に意見を述べさせるが、最終的には天皇の聖断となり、連合国に受諾を通知すると共に、翌日天皇自らがラジオ放送することとした。学者が放送用の原稿案を提出。これは川田瑞穂により作成され、陽明学者安岡正篤が手を入れた。それに対して阿南が細部に亘り苦情、批判を繰り返し、40箇所も手直ししたという。
14日午後11時半=天皇が宮内省に設置した録音室に入り、5分で詠み終えたが、これを2度行った。問題は軍が録音盤を奪取し放送を阻止しようとすることで、隠し場所に苦慮した。陸軍事務局、大本営参謀を兼ねていた軍人2名が近衛第一師団の師団長を暗殺し、近衛兵を連れて宮内省に乱入した。しかし録音盤を発見出来なった。
15日午前10時=この日、朝から再三に亘り「天皇陛下、おんみずから御放送遊ばされます」と放送されていたが、いよいよ録音盤がNHK放送会館と第一生命会館地下スタジオに運ばれる。
15日正午=和田放送員の第一声に続いて、下村総裁の声で「ただいまより重大な放送があります。全国の聴取者の皆様御起立願います。天皇陛下におかれましては、全国民におんみずから大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」
その後、玉音が放送された。
17日=東久邇内閣が組閣された。
この20日間の日本人の死者は後の調査で、何と70万人にのぼることが分かった。これは太平洋戦争全体での日本人死者合計数310万人の20%以上に当る。失った20日間の時間もさることながら、失った貴重な人命の多さに愕然とした。「会議は回る」という言葉があるが、正にこの20日間、戦争遂行者は何を考えていたのだろう。
15日に阿南は割腹自殺し、録音盤奪取に向かった将校2人も拳銃自殺。反乱に加わった近衛師団の将校以上は自害した。彼らエリートたちは、士官学校或いは陸軍大学卒で実際の戦闘には加わらず、地下防空壕で采配していて死ぬ恐れはなかった。命令する者は死なず、命令された者が死ぬ時代だった。