「人間解放の時代」

「さいたま歴史研究会―20」
今年最初の勉強会のテーマは、「人間開放の時代、大正時代の社会運動から」というものだった。大正時代というとモボモガに代表されるようなイメージがあるのだが、実際には大いに違うようだ。ある意味幕末の戊辰戦争から明治という時代が生まれたが、その矛盾点が一挙に噴出したのが大正時代だというのだ。「士農工商」の身分差別から「華族、氏族、平民、新平民」の差別に変わっただけで、以前として色々な差別が世の中を覆っていた。
最初は「婦人の地位向上運動」だ。婦人たちが己の自由、平等、選挙権等を求めて激しく活動を行った時代でもあった。しかし結果は弾圧に次ぐ弾圧だ。関東大震災の直後に警察は婦人運動の主催者や共産党員の暗殺を行っている。大震災後の不穏な世の中を正すという理由には隠されたものがあった。それは朝鮮人への虐殺でもあった。
次が「部落開放運動」だ。この運動は「水平社」といわれ、各地で解放運動が起こった。彼ら差別されていた人たちは軍隊内でも差別されていて、下士官にすらなれなかったという。初めて知った。
次が「アイヌ民族としての覚醒」だ。明治政府はアイヌ民族を日本へ同化させる政策を取った。和人と土人に区別して差別を行い、アイヌの文化を否定した。それが「土人保護法」でアイヌに農業を行うようにさせようとした。大正時代になり漸くアイヌの地位向上運動が始まった。大正11年に差別教育である「土人教育規定」は撤廃された。しかし、昭和40年代まで実際にはアイヌ文化振興法は出来なかった。
「小作争議」が起こったのも大正時代だ。大正12年の小作率(地主から小作が農地を借りている割合)は46%だった。小作たちが賃貸料を下げるように地主に対して行ったのが、小作争議だ。それと平行して労働争議が起きる。労働者が賃上げのためのストライクを行うようになる。大正7年には米騒動が起きる。「越中女一揆」と呼ばれるものだが、この時の時代背景は、ロシア革命が置き、帝政ロシアが滅び、その隙を突いて日本がシベリア出兵したことによる。これを見た米屋や金持ちが米を買占めたのだ。米価格は暴騰した。それに対する打ち壊しだった。始めは富山は魚津の漁師の妻46人が起こした事件だったが、それが全国へ瞬く間に広がった。
またこの時代に普通選挙運動も盛り上がる。米騒動が終了したのに合わせて政府は言論弾圧を行った。新聞報道禁止令が出来、これに反対するジャーナリストが猛烈な反撃を加え、結果、明治から続いてきていた薩長による藩閥政治が終わる。寺内内閣が倒れ、原敬(岩手出身)内閣が出来た。大正7年(1918)のことだ。
普通選挙運動の先頭に立ったのが、尾崎行雄と犬養毅だ。所謂大正デモクラシーの動きだ。当時の小学生が知っている政治社会用語とは何か? これが面白い。「デモクラシー、ストライキ、労働問題、普通選挙、自由平等、個人主義、婦人問題」とあるが、小学生でもこれ位のことは言葉として知っていたのには驚かされる。新聞の購読率は都会である神田地区では85%、京橋地区では80%とあるから、新聞が果たした役割は大きかったといえよう。そして大正14年(1925)3月7日に、「衆院治安維持法」が可決され、同29日に普通選挙法も成立した。
戦後進駐軍がやってきて行った「農地改革」で私が驚いたことがあった。それは農民というのは「自作」と「自小作」であったという。自作とは自分の農地のみを耕作する農民で、自小作とは自分の土地も持っているが、他人の土地を借りて耕作もしていた農民のことだそうだ。完全な小作だけの人はいなかったらしい。農地改革では地主は所有する山林と自宅地以外の農地はどれだけ持っていても所有が許されたのは1ヘクタールのみだったという。新潟のある大地主は農地700ha持っていたが、たった1haになった。しかし広大な自宅は残された。また世代交代による遺産相続問題では、自宅を市などに寄付し、これを一般公開し、そこの管理人として住めば相続税を払わなくてもよいと米軍中尉から教えられたともいう。知らないことばかりの勉強会でした。