「近代日本と慶應スポーツ」

J  REPORT2017 12月第5週号」
「リタイアメント・ノート 9年6ヶ月目」
「VOL.1035号 SINCE AUG.12th、1983」
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「近代日本と慶応スポーツ」
慶応義塾体育会創立125周年記念として特別展が三田の大学構内で開かれていたので観に行った。「体育の目的を忘るる勿れ」という副題が付いていた。展示品は色々あったが、パンフレットから観たほうが分かりやすいので、それから説明しよう。パンフレットの表紙を飾るのは、野球、ラグビー、柔道、陸上短距離?かな。(写真:MX)

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1章は往年の福沢先生が散歩する姿。(写真:M1)
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先生の残された書に「身体健康精神活発」というのがある。「健康」という言葉は大坂適塾の緒方洪庵が用いた言葉で福沢先生が世に広められた言葉だという。
2章では、文久2年(1862年)、先生は欧州にて体育教育を目にして慶応義塾にも体育という考え方を導入した。
写真は当時の慶応義塾の校内の地図だが、運動場というのがある。(写真:M2)
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そして明治25年5月15日に体育会が発足、剣術、柔術、野球、端艇、弓道、操練、徒歩の7つの部で始まった。
3章は、早稲田大学野球部からの挑戦状だ。(写真:M3)
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明治36年(1903)11月15日付けのもので、これが早慶戦となる緒戦だった。第一回戦は三田綱町運動場で行われ11-9で慶応が勝利した。
4章では、ベルリン五輪での「友情のメダル」だ。(写真:M4)
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陸上棒高跳びで2位と3位になった早稲田の西田修平氏と母校の大江季雄氏がメダルを半分に分け合ったものだ。
5章は、戦時下の体育会の出身者で特攻死した水泳部主将が恋人に残した写真立てと褌だ。(写真:M5)
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6章は、弓道部復活の嘆願書でGHQに宛てられたものだ。(写真:M6)
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7章は、山岳部の活躍が報じられた毎日グラフだ。(写真:M7)
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まだまだあるのだが、この位にしておこう。さて次の写真は小泉信三先生が書かれたものだ。(写真:M8)
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「練習ハ不可能ヲ可能ニス」とある。正に名言だ。
我がアメリカンフットボール部からの出品は戦前のユニフォーム。(写真:M9)
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その説明。(写真:M10)
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リーグ戦記念のベルトのバックルだ。(写真:M11)
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こうして歴史は繋がれていく。因みに副題の言葉は、明治26年(1893)3月23日付け時事新報の社説に福沢先生が書かれたものの一部だ。