「エドワード・モース」

「さいたま歴史研究会―16」
「エドワード・モース」
この人の名前を聞いて直ぐに誰だか分かる人はかなりの歴史通だ。明治維新後の日本に招聘された学者で「大森貝塚」を発見した人だ。1838年アメリカはポートランド生まれ。中学卒業後、鉄道会社の製図工として就職するも趣味としての貝の採取・研究で、ハーバード大学の教授に見出され助手になり、その後講義も行う。ボストン大学で学位を得て(1892年にはハーバード。エール、タフツ大学でそれぞれ学位を)、1877年から80年に亘り東京大学動物学教授として来日した。その時、横浜から新橋までの汽車の中から大森貝塚を発見した。当時の日本が招聘していた外国人教授や技師は明治7年の記録で全体で858名で、内433名が英国、144名が仏国、92名が米国、62名が独国だった。話しをモースに戻す。彼は製図工であったことから絵が非常に上手い。そして彼の目を通して見た日本とはどうだったのだろうか?(写真:モースの絵)

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まず、彼我の差は何事も逆だということ。鉋(かんな)の削り方、鋸の引き方、冷水を飲まずに湯を飲む、馬を小屋に入れるときに尻から入れる、本を後から読み右上から下に読む、食事時に糖菓や生菓子が最初に出ること等々であるといっている。また、東京の死亡率はボストンより低い。竹製品が多い。道に打ち水をしている。米国と決定的に違っている点については、彼が東大の門を出たら人力車が4台客待ちしていた時のこと、4人の車夫はくじ引きをして順番を決めたこと、アメリカでは力づくで決着されるのだが。その人力車が急いでいた時、他の人力車とぶつかったら、日本で互いに挨拶しあった。アメリカでは喧嘩となろう。また猫や犬、鶏が路上にいる時、人力車は除けて通った。アメリカでは蹴散らす。当時も今も余り変わらないが、財布を部屋に置き忘れて外出したが、全くなにごともなかったと驚いていた。一方、日本人の不思議なことについては、日本人は外国人を区別出来ない。外国人は物凄い睨み付けるような目と高い鼻、白い皮膚で全て同一視していた。(本当は白人でも色々と人種が違うのだが分からなかったようだ)モースから観た日本人の印象は、背が低く、黒い髪、突き出た唇、頬骨高く、手は小さく繊細、いつもニコニコして静かで丁寧だということだ。