「アルハンブラ宮殿での思い出」

「アルハンブラ宮殿での思い出」
スペインでのことである。有名なアルハンブラ宮殿の見学を終えて、迎えのバスを待つ間、ベンチに座っていた時のことである。次々とタクシーが観光客を運んでくる。勿論それらのタクシーは「トヨタ・プリウス」だ。そんな私の目の前で起きた出来事だった。隣のベンチに地元スペインの中年女性がスマホで会話中だった。一台のタクシーから若い女性と共に半ズボン姿の男性が降りてきた。その時彼のポケットから財布が落ちた。しかし本人は気が付かず歩き出す。すると隣のベンチの電話中の女性が叫んで降りた男性を呼ぶのだが、男性は全く気が付く気配がなかった。電話中の女性はそのままダッシュして財布を拾うと男性を追い掛けたのだ。スペインでは嘗てスリにあった経験のある私にとっては、驚きの出来事だった。まあ衆人環視の目の前だからだったのかも知れないが、女性が財布を拾いそれを落とし主に渡すという日本では当たり前のことが、ここスペインの人が行ったことに驚かされた。こんなことに驚いては本当はいけないのだけれども。(写真:アルハンブラ宮殿)

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「絵図」
西洋に比べて日本では地図の発達は遅れていた。ただ天正8年(1580)には織田信長の手元には外国製の地球儀があった。その翌年には世界地図も信長は観ていた。日本に於ける和製地図は正保2年(1645)の「万国総図」(作者不詳)で、長崎で刊行された。写真は私が持っている江戸時代の絵図の縮小版だ。日本橋周辺の絵図だ。武家屋敷には当主の名前があるが、町屋にはない。白抜きが武家屋敷、灰色が町屋、赤色は神社仏閣を示している。(写真:絵図)

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本格的な日本地図は、伊能忠敬によるものが多分最初なのだろう。1745年生まれの忠敬は今の九十九里町に生家があり、17歳の時に佐原村の伊能家に婿に入った。相手は22歳の妻「ミチ」。伊能家は米の売買、酒造りなどを営む大きな商家だった。天文学を勉強した忠敬は49歳で隠居し、江戸に出て更に勉強し、55歳から10回に亘り全国を測量し、歩いた距離は3万5千キロ、その成果は73歳で彼が亡くなった3年後に弟子達により完成したのが「大日本沿海興地全図」だった。