「北東北の遺跡」

「都会のど真ん中にお社?」
「コレド室町」の映画館の待合室の窓から下を見たら、真下にビルの建設現場があった。だが良く観るとその現場に囲まれるように神社があった。あんな大きな神社が日本橋のど真ん中にあったとは正に驚きだった。(写真:街中の社)

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「さいたま歴史研究会―13」
今回のテーマは「北東北の遺跡」。最初は勿論「三内円山遺跡」。今年の1月にも訪れた場所だ。この地を江戸時代後期の人が訪ねている。その人は「菅江 真澄」という人。三河の人だといわれているが詳しくは不明だ。彼が北東北や蝦夷地を廻って遺跡を調べていたのだ。縄文時代初期から中期(約5500年前から4500年前)に掛けて栄えた遺跡だ。(写真:三内丸山遺跡1)
三内丸山1
これだけの広大な敷地で巨大な建物を建てられるというのは、それなりの人口があり、且つ統率力がある人がいたので、出来たのだろう。周囲では植物や木々を畑のように人工的に育てていた。それも1000年にも亘ってだ。だが突然いなくなってしまった。理由は分からない。(写真:三内丸山遺跡2)
三内丸山2
次は「十三湊」(とさみなと)だ。この湊の名前は今読んでいる「岳飛伝」でも度々出てくる。平泉の藤原氏が栄えた鎌倉時代初期(12世紀末)に中国との間で交易があったことになっている。勿論小説だから事実は不明だ。今の十三湖当たりに15世紀半ばまで安東氏が居を定め繁栄していたらしい。実際、日本海側は津島海流に乗った文明の大きな流れがあったのは事実で、三内丸山でも翡翠(新潟県姫川付近で産出されたもの)が発見されているし、十三湊でも西の物品が色々見つかっている。また鯵ヶ沢の少し北に「亀ヶ岡遺跡」がある。ここからは縄文時代晩期の埴輪がたくさん出土しており、江戸時代にはヨーロッパにまで運ばれ売られていたという。そして稲作が北九州から日本海伝いに伝えられ、この地が当時の稲作の北限となった。その田んぼの跡も見つかっている。最後は「大湯遺跡」。秋田県にあるのだが、「ストーンサークル」があるのだ。日本にまさかストーンサークルがあったなど全く知らなかった。驚きでした。我等日本人の祖先は縄文時代から広く日本列島に住んでいたことは間違いない。その子孫が我々なのだ。菅江と言う人は1754年生まれで1829年76歳で亡くなったから当時としては長寿だったといえる。彼の書いた旅日記が現存し、こういった遺跡を教えてくれているのだ。さいたまでの勉強会の帰り道、綺麗な薔薇の花が咲いていた。(写真:薔薇の花)

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