「バラデロ」

第5日目、2月8日(月)
昨晩はプロ・アメリカンフットボールの決勝戦「スーパーボウル」があった。最初の部分を観てから食事に行き、戻ってからまた見たのだが途中から寝てしまう。目覚めたらラスト数分だったが、ダイジェストを延々とやっていたのでゲームの内容は分かった。
さて午前中は島に行く。船で片道1時間半。船と言ってもシーズン中はカジキマグロを釣る船だ。島は「カーヤ・ブランコ」即ち「白い島」という白い砂浜が綺麗な場所だった。(写真49:島)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

余り透明度は良くなく潜った人に聞くと全く何も濁っていて観えなかったそうだ。サヨリに似た魚がいた。(写真50:魚)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

(写真51:白い島の海岸線)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

約1時間島にいてまた戻る。途中から「カモメ」が付いてきて、我々の投げるスナックを奪い合っていた。どこのカモメも同じ行動をとるものだ。(写真52:カモメ)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

午後からはバラデロの街を馬車で観光する。ここは革命以前は高級別荘地だったという。ここで漸く革命の意味とクラッシック・カーや豪邸の理由が分かった。革命軍が奪ったものが「車」であり、「家」であり、富裕層の「財産」だったのだ。富裕層はそれら全てを残して逃げ出すしかなかった。またサンタクララの戦いのように革命軍400人が政府軍4000人に勝つというのは、軍隊自体が戦意喪失しており、命掛けの革命軍の前には戦う前に逃げるしかなかったのだろう。化学会社で財をなした「デュポン」がこの半島の先端部分から10kmを何と1平方メートル当たり16セントで買ったという。その後彼は先端2kmを残して残り8kmを50ドルから100ドルで売ったというから凄い。その中には「アル・カポネ邸」もあった。石造りの家で全てが石で出来ている。ここにカポネは2度訪れたというが実際にはお酒の倉庫だったらしい。当時禁酒法時代のアメリカに密輸するための基地がここだった。(写真53:カポネ邸)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

デュポンの家は半島の先端にあるから、3方が海という最高のロケーションだ。(写真55:デュポン邸からの眺め)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

(写真56:ゴルフコース)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

実際に当時デュポン邸には9ホールのプライベート・ゴルフ・コースもあったという。この屋敷は木造、それもキューバ産のマホガニーで全て造られているから、カポネの家が実にみすぼらしく感じる。エレベータまで付いていた3階建ての邸宅だった。現在のゴルフコースは貸しクラブ含めてビジターが90ドルだそうだ。(写真57:デュポン邸)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

夜は「さくら」という鉄板焼きレストランに行った。隣に座ったのがカナダ人の夫婦だったので話しをし、日本食の食べ方を教えたりしたが、20年前にモンテネグロからカナダに移住し現在はトロントで金融のアドバイザーをしている63歳の人とその妻だった。料理自体は「これが和食」とはとても思えない。まあ、仕方がないが鉄板焼き風の物を食べたと思うしかなかった。

第6日目、2月9日(火)
いよいよキューバも最後の日になった。今日一日で明日は帰国日だ。キューバの北海岸を大西洋に沿って西に向かう。途中、海岸線に沿って油田の井戸が観えた。さてキューバで一番高い場所にある橋を通過。(写真58:橋)120数メートルの高さがある。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

1954年にノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイが好んでやってきた漁村「ヒコマル」は全く無名の村だったが、彼の「老人と海」が世に知られたことで一躍有名になった田舎の漁村だ。彼がレストランで聞いた地元の漁師の会話からヒントを得て、「老人と海」を書いたという。(写真59:小説のモデルになった漁師)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

角の席がヘミングウェイの指定席で今はそこには像が飾られている。(写真60:ヘミングウェイ像と海)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ヘミングウェイとカストロの写真もある。1960年革命後にこの地でフィッシングの大会があり、その時の優勝者がカストロだったということでトロフィーをヘミングウェイが寄贈した。(写真61:ヘミングウェイとカストロ)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

この日は波も高く、寒かった。現地の人に聞いたが、既に洪水が2度あり、寒いので異常気象だということだった。(写真62:打ち寄せる波)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ヘミングウェイは
1899年生まれで1961年に亡くなった。村人は彼への親しみを込めて、漁船のスクリューを自ら提供して彼の像を造ったのだった。彼はうつ病で最後は自殺した。村人は彼の63歳の誕生日に合わせて像を飾ったという。(写真63:村人が造った像)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

更にハバナ近郊に彼の自宅がある。今は博物館となっている。(写真64:自宅前)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

彼は第一次世界大戦時に負傷して膝が悪く、著作時にはベッドルームの壁の本棚にタイプライターを置き、裸足で立ってタイプしていたという。(写真65:ベッドとタイプライター)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

書斎には周囲に鹿の角などが掛けられ、一点「ピカソ」が書いた白い動物の絵がある。彼はこれをスペインでたったの150ドルで求めたという。(写真66:ピカソの作品)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

また食堂には大きな「ミロ」の絵が飾られている。(67写真:ミロの絵)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

プールの横には彼が愛用したボートが置かれていた。フロリダのキーウエストで建造された船で、これで魚を釣りに出たのだ。(写真68:ボート)
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

さて社会主義国家キューバも節目を迎えようとしている。カストロに代表される革命期の人たちが去りつつあり、今後世界とどう付き合うかが試されようとしている。少子高齢化が進み、2020年からは人口減少になるとみられるキューバ。現実的には乞食もいるし、少ないとはいえ格差はあるのだろう。また徴兵制があり、男子は18歳から2年間徴兵される。頼みの観光業は年間300万人が訪れるが、その内100万人がカナダからだ。日本からは年間1万人程度だという。アジアからはやはり中国人が多いという。アメリカの経済封鎖はアメリカ製の部材を10%以上使用するものは各国にキューバへの輸出を禁じているという厳しいものだ。車は新しいのは大半が韓国製だった。日本車も少しは走っていた。いずれにしても平等、公平、人道を謳っている国だが、次世代の指導者は何を考え、どのように国民を導こうとしているのかが全く観えないのがキューバだった。これまでの相互扶助精神が資本主義の波にどう揉まれて行くのか?興味津々の国から目が離せない。

第7日目、2月10日(水曜日)
早朝、4時半にホテルを出ていよいよ帰国となる。トロントはマイナス3度で今度は白銀の世界だった。日本は何があったのだろうか?陸の孤島のキューバからやっとネットが使える世界に戻ってきた。キューバでは形態やスマフォの普及率は低く、約400万台らしい。やはり高いのが電気代とガソリンと通信だろう。トロントに来て文明世界に戻った感がある。まあ、無事に羽田に到着できることを願うだけだ。