「江戸の生活」

「江戸の庶民の生活は楽だったか?78」
「旗本八万騎」
お目見えの旗本は凡そ5千2百名、お目見え以下の御家人が1万7千名ほどだと言われている。だから八万騎というのは直参の陪臣を含めてのことだろう。誇大な話しでそれだけ沢山家臣がいるぞという幕府の法螺かな?

「棄捐令(きえんれい)」その2
所謂借金棒引き令なのだが、元々は鎌倉幕府の執権北条貞時が永仁5年(1297)発した「徳政令」に由来するらしい。御家人救済が目的だったが、関わっていた金貸したちが激しく反発し、それ以後の融資を絶ったため逆に御家人は更に困窮したという。江戸時代有名な棄捐令は寛政の改革時の寛政元年(1789)に松平定信が行ったもので総額118万両を越す損害を札差仲間96軒の豪商たちは受けたという。今のお金にすると1200億円ほどにもなる。これは大変なことだった。これも鎌倉時代と同じで逆に新規の融資が受けられなくなり旗本御家人は更に苦労したという。棄捐令が出た頃からは既に力は武士から商人に移っていたことの証しだろう。

「大名屋敷は拝領屋敷」
大名屋敷は幕府から与えられた「拝領屋敷」というもので、基本的に「上、中、下」の三屋敷があった。「下屋敷」は江戸の郊外にあり、美しい庭がある場合が多かった。役目は火事や災害など際の避難場所でもあった。「中屋敷」は隠居した先代当主や大名の子女が住むための場所だった。「上屋敷」は大名家の江戸に於ける本拠地で、参勤交代で江戸詰めの間、暮す場所だった。また別に「蔵屋敷」と呼ばれる年貢米を取引するためのものもあった。上屋敷では国元から一緒にやってきた家臣たち、また江戸家老を始めとする江戸常勤の者たちの住処もあった。下級武士の住処は上屋敷の周囲をぐるりと廻る塀の内側に長屋として設けられていた。塀と住居(長屋)が一体化しており、窓からは塀の外が見えた。勿論、大名より石高の少ない旗本や御家人も幕府からの拝領屋敷を与えられていた。例えば「忠臣蔵」で有名な「吉良邸」は元々は「呉服橋御門」近くのところにあった。呉服橋御門を入ったところには「北町奉行所」があった。今のJR東京駅日本橋口付近だ。更に奉行所から御城に少し行くと「評定所」があった。これは今でいう最高裁判所みたいなものだ。奉行所前で不逞な輩(赤穂浪士)の吉良邸討ち入りなど起きてはお上のご威光に掛かるとの思惑からか、吉良邸は本所に移された。真実は分からないが、幕府はお城から離れた場所に吉良家を移したことは事実だ。評定所では老中、大目付、寺社奉行、勘定奉行、南北両町奉行らによる所謂「五手掛かり」で色々な問題が討議され裁判の判決を決めたという。写真は福井越前藩「松平家」の江戸上屋敷を復元したもので江戸初期のものだ。実に立派な門構えだ。(写真:大名屋敷表門)

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周囲は長屋がぐるりと塀の代わりに建てられている。脇門も実に立派だ。(写真:大名屋敷脇門)
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写真では建物は表の部分だけ造られているが、実際は裏手も全て建物があり、その間取りが描かれている。これらは両国の「江戸東京博物館」5階常設展示場にあるものだ。(写真:大名屋敷全景)
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福井藩は家康の次男「秀康」が初代藩主だから親藩中の親藩だ。幕末に活躍した藩主「松平春嶽」が有名だ。この屋敷、明暦の大火で消失しその後再建されたが、こんなに立派なものにはならなかったらしい。