「京橋の親柱」

「古地図」を片手に散歩に行く。「日本橋」から「東海道」今の「銀座通り」を京都に上って行く。始まりが日本橋でゴールは京都の「三条大橋」となる。日本橋を出発して最初の橋が「京橋」だということは既に以前垂オ上げた。そしてそこには大きな「京橋の親柱」が立っていた。京橋の下に流れていた川は埋め立てられ、これも高速道路になっている。京橋の江戸城側には「大根河岸」があり野菜の市場があったようだった。京橋の先はご存知「銀座」だ。この辺りは「数寄屋橋」から今の「松竹本社」まで銀座通りに沿ってずっと町屋が立ち並んでいた。その先「新橋」からは道の両側のみが町屋でその裏側は全て「武家屋敷」になっていた。この辺りの通りは勿論日本一の街道「東海道」だったのだから、大変に人通りの多い所だったのだろう。京都へ上る人も江戸に下ってきた人も田舎から来た人も皆通ったことだろう。新橋を右に曲がると「虎ノ門」、その先「溜池」となる訳だが、地図にはかなり大きな池があり「溜池」と記されている。あの辺りも今は埋め立てられている訳だが、地名だけはちゃんと残ったのだった。溜池から赤坂方面に進む右手は「山王日枝神社」までは「寺院」が20寺近く立ち並んでいたようだった。今の「総理官邸」の下がそれら寺社があった場所だ。今では「内閣府庁舎別館」や「山王パークタワー」があるところがそれだ。さて23日のNHKテレビの「ブラタモリ」で深川の運河を取り上げていたのでご覧になった方もおられると思う。「永代橋」を越えて深川に入って左側には「佐賀町」があり、昔は運河沿いに「海辺大工町」があった。名前通り船大工の町だったという。今この地名は残っていない。辛うじて「海辺町」という名はずっと東に行った扇橋と南砂の境に今も残っているがこれと海辺大工町とは全く関係ないだろう。分かりました。現在の「海辺町」は昔の「海辺新田」の名残りでした。古地図には他にも今の木場辺りにも「海辺新田」というのがあるから、海辺に新しい田畑を埋め立てて作った土地に名付けた地名なのだろう。

「人足寄場」
先週、「石川島」にあった幕府の「御用地」が、軽微な犯罪者を集めて更正させようとした「人足寄場」だと垂オ上げたが、今は佃島の超高層マンション群が建っているところがそれだ。ここには幕末に勝海舟が幕府の「海軍造船所」を作った「近代日本造船業の礎」になった場所でもある。だからそこから「石川島重工業」今の「IHI」が起こったのだった。

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