「駕籠」

江戸時代のことを考えてみると、驚くことがある。まず人の移動だが、基本は「歩き」だ。そして次は「舟」、これは渡し船だったり、廻船だったり、人にも物資にも非常に便利で重要な移動手段だった。そして武士階級は「馬」という手段があった。ではその他は?それが「駕籠」「駕籠屋」も沢山あったようだ。今のタクシー会社と思えばよいだろう。また「辻駕籠」といって所謂「流し」の駕籠もあったようで、江戸の町には1万もの駕籠があったという説もある。二人の駕籠かきが一人の客を運ぶ訳だから値段は高かったらしいが、それでも利用する人は沢山いたのだろう。駕籠かきの手間賃は職人の代賦i「大工」の日当より収入がよかったという説もある。「駕籠かき」を商売にしている臨時雇いの人足たちもいたようだ。特に武家の場合、体面を重んじるため駕籠を使うがこれがまた重たい大きなもので、特別な駕籠かきが臨時雇いで雇われ担いでいたらしい。常雇いでは人件費が高くなってしまうので臨時雇いに頼っていたようだ。ご存知「忠臣蔵」でも江戸から赤穂まで「早駕籠」で駆け抜けたそうだからその利用度は窺い知れよう。「桜田門外の変」で大老の「井伊直弼」が暗殺された時も「駕籠」=「乗物」と言われていたに乗っていた。明治になると「人力車」や「馬車」が使われるようになったが、それまでは「駕籠」が最も利用されていた輸送手段だったのだ。江戸は世界で初めての100万人都市と言われているが、その実、武家地が7割、寺社地が1割、普通の民間人の住む土地が2割という告ャだったようだ。圧倒的に武家地、勿論その中には「お城」も含まれるのだが、実にアンバランスな告ャでこれで100万人を住まわせていたのだから、その込み具合は想像できると言うものだ。

「朝の散歩」
愛犬と朝の散歩をしていると、その先に一群の「トリ」がいた。雀よりは大きく、鳩よりは小さく、なんというのか知らないが、我が家近くの木立に沢山住んでいる鳥たちだ。インターネットで調べたら「ムクドリ」らしい。この鳥たち、夜明け直後から「チイチイチイチイ」と鳴き声が凄い大きい。そして夕方になるとこれまが凄まじい鳴き声をあげながら巣に戻ってくる。「鳥害」というのがあればそれだ。春に繁殖した鳥たちは数週間で巣立ちをして翌年の春にまた繁殖する訳だが、この確率はどうも5%以下らしい。だから沢山の鳥たちがいても冬を越えて翌年の春を迎えられるのはほんの一握りと言うことになる。赤ん坊の小鳥が巣立つ前には、一日500匹もの虫類を親が取ってきて与えると言う。鳥の大きさにもよるだろうが、それはそれは大変なことだ。何万何億もの虫たちの犠牲の上に鳥たちがおり、その鳥たちを食べるもうちょっと大型の鳥がいて、と食物連鎖の輪は続く。

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