「伝馬町牢屋敷跡」

偶然、日経新聞でその記事を見た。江戸時代の「伝馬町の牢屋敷」跡地が見つかったと言う。それを中央区が公開していると言うことで早速観に行ってきた。残念ながら撮った写真がどういう理由か分からないが消えてしまった。この現象は6月のオランダでも丸一日分の写真が消えてしまったことがあった。参った。だから実物をご覧に入れることが出来ないのが垂オ訳ないのだが、地上から数メートル下から見つかった牢屋敷跡の一番の驚きは「上水道」の施設だった。「神田上水」から引かれた水道が「木製の樋」を使ってここまで運ばれてきていたということだ。その樋がそのまま残っていたのには驚かされた。今回発掘公開されたのは、「牢屋敷」の中央部分だが、「木製の樋」「砂利敷きの庭」「建物跡」「石垣」等々ある。肝心の牢屋は屋敷北側の塀に沿って建てられていたが、今回の発掘部分には入っていない。配布された資料によれば、囚われていた有名人には「平賀源内」(牢内で病死)、「鼠小僧次郎吉」(磔獄門)、「高野長英」(脱走後自害)、「渡辺崋山」(国元で自殺)、「高島秋帆」(追放)、「吉田松陰」(牢内にて処刑)、「佐久間象山」(蟄居)、「橋元左内」(斬首)となっている。説明によると、東西に「大牢」というのがあり、5間四方の牢屋に100人以上が入れられていたという。武士階級のものは「揚座敷」「揚屋」というのが2つづつあり、6坪ほどの部屋に入れられていたようだ。牢屋はその他「二間牢」「百姓牢」「女牢」「遠島部屋」「拷問蔵」「穿鑿所(取調室)」があったという。そしてこの牢獄を管理していたのが「石出帯刀(たてわき)」というのが代々世襲して役目についていた。一応旗本で300俵なのだが、非常に身分の低い役人だったらしい。もう一人有名なのが「首打役の山田朝右衛門」がいたことだ。これも世襲で首を落とすのが専門の役割だった。こういった貴重な文化遺産は本当は是非残してもらいたいものだが、何か中央区の施設が建てられるらしい。

「東京駅舎」
赤レンガ造りの「東京駅」の駅舎の全景がいよいよ見られるようになってきた。秋には全面オープンするのだろが、歴史的な建物なので修復されて本当によかったと思う。重厚なという阜サが当っていると思う。大正時代の面影を色濃く残しているこの建物。素晴らしいものが再現された。

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