お江戸日本橋の賑わい

「J  REPORT 2012 10月第3週号」
「リタイアメント・ノート 4年4ヶ月目」、
「VOL。763 SINCE AUG.12th、1983」
「江戸は日本橋北詰の模型」
両国の「江戸東京博物館」で「徳川家康の肖像、江戸時代の人々の家康観」という催しが行われていた。身障者手帳を見せれば「ただ」なので入ってみた。そこの「常設展示場」に大きな模型があった。一つは「江戸城本丸」、もう一つは「大名屋敷」、そして最後は「江戸日本橋北詰」の3つだった。特に日本橋から神田方面を模したものには詳細な人間の姿をした模型たちが立ち並び、当時の江戸の賑わいを浮墲オていた。武士、町人、芸人、老若男女が集っている。まさに江戸、日本橋の縮図だ。葡ハりには大店があり、その前を「棒手振り」が魚や野菜を運びながら商品を売っている。裏では長屋の井戸端で女性たちが「井戸端会議」、その隣で子供たちが遊んでいる。長閑な日中の風景でした。

「元上司の死」
今年、3人目の直属の元上司の死だった。それは突然のメールで判明した。既に神戸で通夜は開催されていた。慌てて翌日の葬儀に間に合うように新幹線で東京を経つ。葬儀場は新神戸駅から徒歩15分ほどの場所にある「キリスト教会」だった。二日前、朝の散歩中、路上で倒れてそのままお亡くなりになったという。残されたのは奥様のみ。その奥様のご挨拶に寄れば、「1年半ほど前に心臓疾患が見つかり、それから7回の入退院を繰り返し、カテーテル治療でステントを4箇所入れていたという。復帰し最近では散歩とカメラ撮影を楽しんでおり、一ヶ月前にはゴルフもやったという。いつもなら奥様も一緒に散歩するのだが、その日は単独で出掛けた」という。そして携帯に夫発信の電話が入ったが、話している人は救急隊員だという。「直ぐに病院に来て下さい」ということで、駆け付けたが、一度も意識が戻らぬまま、すでに帰らぬ人になっていたという。心の準備もお別れの言葉も掛けられずに旅立たれた奥様には本当にお悔やみの言葉すらない。今年の年賀状には「大病をしました」と書かれていたが、これほどのことがあったとは知らなかった。「O氏」67歳、早過ぎる死でした。彼とはある共通点がある。彼は関西学院の中学部ではタッチフットボールを、高校大学ではアメリカンフットボール部に所属していた。私も高校大学と体育会でアメリカンフットボールをやっていた。関学とは定期戦があり、交互に東京神戸を訪れ戦っていた。その当時は一度も勝てなかった。だから彼とは試合場のグラウンドのどこかで会っていたはずだと思う。葬儀の最期、お別れの時に奥様がキッスをされていたのを見たら思わず涙が出てしまった。ご冥福をお祈りする。そこで思い知ったのだが、人の生き死には正に「サドンデス」だ。卵zも出来ない時に突然死が舞い込む。常に死を意識して生きなければならないと改めて思った次第でした。「遺言」を書くことにした。

「お江戸日本橋の賑わい」

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