「鉄の女」と呼ばれた英国のサッチャー元首相が亡くなった。そのニュースを聞いた時に思い出したのが、南米の二つの国と二人の元大統領のことだった。ペルーのフジモリ氏、そしてベネズエラのチャベス氏らだった。共に選挙で大統領に選ばれた訳だが、「貧困層に対する無料住宅の提供」等の保護策である意味「票を買った」ようなものだからだ。それでもまだ選挙という形を取ったわけだからましなのだが、それすら出来ない「中国」や「北朝鮮」の人たちには自分たちでリーダーを選ぶことすら出来ない。フジモリ氏やチャベス氏は英雄なのか独裁者なのか分からないが、それぞれの国の都合とは言え、権力者にはそれなりに存在理由があるはずだ。ところが中国や北朝鮮には国民を代浮キるという機狽ェ全くない。そんな人たちが権力を握っている国が我々の身近にあることの危険性はいつになったら去るのだろうか?まずはサッチャー氏のご冥福をお祈りする。
「オランダ国旗と塾歌」
大学体育会同期卒業生の集まりがあり、この4月に新しく開校した母校の「横浜初等部」の部長さんの講演があった。その中で、私の母校の校歌、正式には「塾歌」というのだが、この歌詞の一番の部分に「見よ、風に鳴るわが旗を、、、」というのが出だしがる。この旗は当然「校旗」だと思っていた。我が母校の校旗は「三色旗」と言われており、「青、赤、青」なのだ。ところがこの歌詞にある旗は「オランダ国旗」だというのだ。塾歌は昭和16年10月に創られたと言う。その時に「なぜオランダ国旗だったのか?」理由はナポレオン統治時代のヨーロッパではオランダは自国の国旗を立てられなかったという。しかし、唯一アジアの日本、即ち長崎の「出島」には立派にオランダ国旗が翻っていたというのだ。その故事により、我が母校もいかなる時代にあろうとも旗を降ろすことなく「文化を護る」という思想を貫くというのが、この歌詞に込められた「旗」と言う文字の真実だというのだ。これには「眼から鱗」だった。更にそこにはもっと深い意味があった。それは1858年戊辰戦争時、江戸では上野の山に彰義隊が立て籠もり、官軍が砲撃を繰り返している戦乱の大混乱の最中、我が塾はたった18名の生徒の前で創始者が講義を行い、「勉学(蘭学を示す)の火を消すことはなかった」という。これが「オランダの国旗が国難の最中にも出島で翻っていたこと」に通じるのだというのだった。母国がナポレオンに侵略されていたにも拘らず出島で掲げられた「オランダ国旗」、かたや幕末の戦乱動乱の最中に「蘭学(学問を学ぶということの象徴の意味)」を学んでいた私塾、共にキーワードは「オランダ」だった。母校の校歌に母校の旗ではなく「オランダ」の旗を歌いこんだ人たちに敬意を浮オたい。(注:今も聖路加国際病院際、鉄砲洲に創塾時の碑が残されている)
「見よ、風に鳴るわが旗を、新潮(にじお)よするあかつきの、嵐の中にはためきて、文化の護りたからかに、貫き樹(た)てし誇りあり、樹てんかな、この旗を、強く雄々しく樹てんかな、、」と歌詞は続く。
因みに母校の校旗「三色旗」は、創始者が英国に行った際にどこかの学校で見た旗をぱくったという説があるともいう。