「江戸の庶民の生活は楽か?10」

江戸時代の荷物の運搬は勿論、「船」所謂「海運」だが、陸では「大八車」が主流だったらしい。その起源だが、二つ説があり、「大工の八右衛門」が造ったという説と、「人間八人前の代わりをするから、代八が大八車」になったという説があるという。馬もあったろうが、庶民には程遠いから、やはり大八車は便利な運搬手段だったのだろう。現実に大正時代の「関東大震災」の時ですら、家財道具を積んだ大八車やリアカーが本所に沢山集まったために荷物に火災が移り、人的物的被害が拡大したとも言う。もう東京では「桜の花見」は終わったが、江戸時代庶民に花見が盛んになったのは「八代将軍吉宗」の時代だ。吉宗は一時「綱吉の生類哀れみの令」で中止されていた「鷹狩り」を復活させた。その際に各地に「桜」を植えさせた。例えば「墨田川」「飛鳥山」「上野」「品川」等がそれだ。鷹狩りは軍事訓練と一緒だから、庶民にとっては邪魔で迷惑なものだし、田畑を荒らした。その穴埋めとして「桜の花見」が提供されたという。当時の桜は「山桜」だった。その後時代が下って「染井村」の植木職人が「ャ<Cヨシノ」を作り出し、それが江戸から日本中に広がって行ったという。

「赤坂プリンスホテル」
行ってみてびっくりしたというのが感想だ。テレビ等報道機関でホテルが上部から徐々に壊されながら高さが下がって行くという新しい解体工法だというのは知っていたが、実際に見てみると本当に驚かされる。解体というと何か破壊的なイメージだが、綺麗で静かで美しいということすら感じるようなものだった。これは正に日本式解体方法だろう。アメリカならば爆薬をあちこちにつけて人を避難させて一挙に爆発で破壊するというような方法を取るのかも知れないが、実に丁寧な日本式方法だ。都会の真っ只中なのに静かに静かに高層の建物が低く低くなっていくというのは素晴らしいと思った。もう直ぐに解体は終わるのだろう。赤坂の名所が消えていった。

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