話しはちょっと変わるが、「扇」というものはどこが発明したと思われるだろうか?元々「団扇(うちわ)」が平安時代に中国から入ってきた。その後、木を薄く削った数枚の板を使って紐で結んだ「扇」なるものが日本で発明されたという。まあ「木簡」のような形状だ。それが室町時代後期に「薄く削った竹を骨にして、一点に纏め要とし、紙を両面に唐骭`式」の今も使われているような「扇」が発明され、「日明貿易」の日本からの主力輸出品になったというから驚きだ。扇には立派な絵も描き込められたから確かに芸術品に値するだろう。これも日本人の器用さが生んだものだろう。竹を薄く削り、何枚もが重なるようになるためには先に行くほど竹は薄く削らなければ重なり合わない。まあ素晴らしい考え方だといえよう。因みに室町時代後期の日明貿易の輸入品は繊維製品(唐物)と銭だったという。当時の日本には銭を発行させるような政治的に安定した権力(勿論財力の問題もあったが)がなく、中国からの輸入の通貨「銭」が一般的に流通していたのだ。勿論江戸時代は自前の通貨だった。
さて写真は銀座通りに並行していた「三+(じゅう)間堀」の現在の姿だ。これは「三原橋」から見た画像だが、すっかり埋め立てられている。この地は「木挽町」と呼ばれていた場所だ。勿論「三+(じゅう)間堀」に掛かっていたのが「三原橋」だ。ご存知の通り、江戸の町は「掘割」が至る所に張り巡らされていた。基本的に江戸の町は埋立地が大半だったから、掘割があって当たり前だったといえよう。ここを沢山の船が通っていたのだろう。想像するだけで楽しくなってくるではないか?