民宿など本当に久し振りに訪れた。多分子供たちが小さかった頃毎年夏に訪れた伊豆は下田の民宿以来ではないだろうか?場所は岩手県八戸市「種差海岸」だった。先日ご報告ご紹介した「大人の休日倶楽部」で3S会のS氏と二人での旅の途中だった。多分70歳代のご夫婦二人で経営されている民宿で我々以外には男性宿泊客が一人いたが、付近の建設現場で働いているらしい。早速夕食を食べたが、量、質、共に本当に美味しかったことは既にご報告済みだが、田舎の人たちの親切さがしみじみと感じられた民宿だった。なにかタイムスリップして昭和に戻ったような感じでした。
「江戸の庶民の生活は楽だったか?23」
「武家の商法」
これは「武士は商法を知らないから、まともな商売は出来ず失敗した」という言葉として知られているが、実は決してそうではなかったようだ。徳川幕府が崩壊して、明治新政府が出来ると、所謂「政商」となっていくのは、武士階級から出た人たちなのだ。政治に結び付いた人たち、元武士階級の人たちが有力な商人となったのだ。三菱の祖、岩崎弥太郎(元土佐藩士の浪人の子)も、その他財閥と呼ばれるようになった人たちも武士階級出身者か、元武士だった人たちが圧倒的に多いようだ。また明治の経済界を発展させたのは、武士出身の人だし、教育面では「私学校」を創ったのもそうだ。少なくとも、慶應(福澤諭吉、中津藩士)と早稲田(大熊重信、佐賀藩士)は間違いない。古い時代からの豪商を見てみると、三井家は藤原道長?住友家は桓武平家の子孫だそうだ。
「拝領地」
前週でもお話ししたが、大名は江戸に幕府より土地を貸し与えられていた。それは「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」である。江戸城に近いところから、譜代大名を中心にして貸与されていた。これを「拝領地」と呼ぶ。あくまで地主は幕府であり、そこを賃借料なしで借りていたのが大名たちだった。それ以外に手狭なために別途設けた屋敷は「抱え屋敷」と呼ばれて、これは大名家の私有地だった。同じことは大名だけでなく、徳川家の家来である「旗本」「御家人」らも「拝領地」を与えられていた。下級武士は「組」(今で言えば会社の部か?)同士で「組屋敷」といって同じところに住んでいた。例えば「御徒町」は「御徒衆」の組が棲み、「八丁堀」は「町方同心」が棲むというように組織毎に住処が与えられていた。