「豊洲に新中学高校が」

モノレール「ゆりかもめ線の新豊洲駅」の東側に新しいフェンスと看板が出来ていた。そこに書かれていたのは「芝浦工業大学中学高校」という文字。どうやら豊洲にある芝浦工業大学豊洲キャンパスに続いて付属の「中学、高校」が出来るらしい。急速に人口が増加している「湾岸部」には公立の幼稚園、小学校、中学校はあるが、私立の学校は芝工大以外はこれまではなかった。そこに中学と高校が出来るというのだ。まあニーズに沿ったものだから当然と言えば当然だろう。いつ出来るとは書かれていなかったが、恐らく2015年度入学位なのではないだろうか?

「江戸の庶民の生活は楽だったか?25」
「沽券」
「拝領地」のお話しをしたが、これは基本的には「幕府の土地」を貸して貰う土地のことだ。では私有地はなかったのかというと、勿論「私有地」はあった。そして「土地台帳」「土地権利書」ともいうべきものが、「沽券書」というものだ。これには物件が赴Lされ、所有者が記され、町役人が署名したもので、正に現在の権利書なのだ。これが土地の売買時に渡され、新たな持ち主の名前が記載されるのだった。ところで皆さんも「沽券に係わる」という言葉をご存知だろうが、これは「その人の面子や体面、顔や名誉に係わる」という意味のものだから、「沽券」は個人にとっても非常に大切なものだったことが分かろうというものだ。「拝領地」だが、これも実質的には陰に隠れて売買されていたらしい。旗本や御家人の土地は幕府の土地で基本的には売買できないから、「貸借」というような形で持ち主が変わっていたらしい。どこにでも抜け道はあるものだ。勿論、庶民の大半は九尺二間の「長屋」住いでした。
「井戸替え」
7月の七夕前に江戸では「井戸替え」が行われたという。井戸は貴重な水を保管するためのものだから、年に一度は井戸の掃除をする必要があった。江戸の井戸というのは、別に地下水を汲み上げるものではなく、雨水や水道水を溜めて置くものだった。特に水質の悪い深川などでは海水が湧き出すから、飲み水にはならない。しかし大川より西側は多摩川や井の頭池から水道が引かれて飲み水となっていて井戸に溜められていた。だから深川などでは飲み水は買うということになったから、「水売り」がやってきていたという。そんな水は甕に溜めて家に置いていた。

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