「相撲の錦絵と江戸文化展」

「J  REPORT 2021 9月第2週号」 
「リタイアメント・ノート 12年3ヶ月目」
「VOL.1228 SINCE AUG.12th、1983」
「相撲の錦絵と江戸文化展」
急に秋風が吹き、気温20度と肌寒い東京。なんと10月上旬の気候だという。寒い位だが、先週も訪れた両国の「江戸東京博物館」の常設展を訪れた。(写真:B27)
(写真:B1)
新横綱の登場に沸く予定の両国国技館だが、その隣の江戸東京博物館は静かなものでした。(写真:B28)
パンフレットから抜粋してみよう。「日本書紀(720年成立)に「当麻蹴速と野見宿禰の埆力」を期限とする相撲は、神事や宮廷行事となって発展し、力比べの対戦を観て楽しむという文化を育んだ。江戸時代には相撲観戦は庶民の楽しみとなる、17世紀末頃から、相撲の興行は三都を中心に頻繁に催され、諸藩に召し抱えられた力士たちの取り組みの人々は熱狂した。18世紀中ごろには、春と冬は江戸、夏には京都、秋には大坂という定例の興行が確立した。18世紀末の1889年には強豪力士を格付ける「横綱」が登場し、1791年には将軍が江戸城内で相撲を直々に観覧する「上覧相撲」が催された。将軍のお墨付きを得て、相撲の社会的地位は飛躍的に向上する。
中でも初の横綱になった二人の力士、「谷風梶之介」(1750-1795)とそのライバル「小野川喜三郎」(1758-1806)だ。勝川春章(1743-1792)とその一派は彼らの個性を捉えた似顔絵や取り組みの光景を描き、興行の熱狂を伝えた。
当時の江戸を再現したものをみよう。日本橋の模型だ。本物の1/2だ。(写真:B2)
日本橋北詰。駿河町辺りで三井越後屋の店構えが威容を誇っている。(写真:B3)
(写真:B4)
初期の江戸城、大手門方面から見たもの。(写真:B5)と大奥。(写真:B6)
天守閣は明暦の大火で焼け落ちてからは再建されていない。
西の丸のあったところ。(写真:B7)
西の丸の主は将軍の時期後継者の住まいだ。
「家康公」の像。(写真:B8)
日本橋を下から眺めたもの。(写真:B9)
「歴代横綱図」歌川国定作(写真:B10)
「谷風」勝川春英作(写真:B11)
「小野川」勝川春英作(写真:B12)
「五代目市川團十郎の助六」勝川春英作(写真:B13)
「藩邸内水入りの図」勝川春英作(写真:B14)
「小野川、谷風引分けの図」勝川春英作(写真:B15)
「関取場所行乃図」勝川春英作(B16)
「両国大相撲繁栄之図」歌川国郷作(写真:B17)
「回向院内ノ図」初代歌川国貞作(写真:B18)
1958年7月市村座、三代目歌川豊国作(写真:B19)
「日本一横綱道標入りと正面の図」勝川春英作(写真:B20)
「勧進大相撲興行図」勝川春英作(写真:B21)
「相撲取組図」渓斎英泉作(写真:B22)
「勧進大相撲」三代目歌川豊国作(写真:B23)
「大相撲関取両国場所通行の図」三代目歌川豊国作(写真:B24)
「相撲表四十八手図」三代目歌川豊国作(写真:B25)
「生月鯨太佐エ門」等身大約228.5cm 三代目歌川豊国作(写真:B26)
当代の「人気力士の錦絵」は、「歌舞伎役者の浮世絵」や「吉原の花魁の美人画」ともども大人気になったという。
18世紀後半から19世紀の江戸期終わりに掛けて活躍した有名な力士たちは、「谷風梶之助」「小野川喜三郎」「雷電為右衛門」「大童山文五郎」「阿武松緑之助」「稲妻雷五郎」「不知火諸右衛門」「生月鯨太左衛門」らが上げられる。
「横綱授与の図」(写真:B29)
1780年(寛政元年)11月、江戸深川八幡宮境内の土俵で二人の力士、谷風梶之助と小野川喜三郎に「横綱」が伝授された。横綱をしめて土俵入りをおこなう資格を与えて強豪力士を格付ける「横綱免許」の慣習が、この時始まった。写真左に小野川、右に谷風、中央の行司は木村庄之助だ。免許と綱は谷風のものです。