「新橋停車場」

「新橋停車場」
日本近代化の象徴でもある鉄道の歴史は、ここ新橋停車場から始まった。明治5年(1872)10月14日にここと横浜を結ぶ29kmの鉄道運行が行われた。
プラットホーム跡が発掘され、ほぼ当時の姿に再現されたのが、この施設だ。(写真:C1)
(写真:C2)
今回は車内レストランの特別展があるということで訪れたが、展示物は貧相なものだった。(写真:C3)
(写真:C4)
(写真:C5)
だがこの機会に日本の鉄道の原点を見つめ直すことも必要かと思う。
新橋と横浜を結ぶ鉄道を造ろうという中で、駅舎は明治4年5月に着工された。当初は駅舎も鉄道も鉄骨を輸入して行われる予定だったが、予算上の問題と日本では良質の木材があるということで、駅舎も木造で、鉄道線路も枕木も木で造られることになったという。駅舎は同年12月には完成した。線路は海岸線を走らせる予定だったが、その上には藩邸や民家があり、結果として品川では海の中に堤を築いて走らせたし、神奈川でも同様海の上を走ることになった。
そして開業の日、明治天皇も御臨席され同乗されて、始発列車は横浜(現在の桜木町駅)へと向かった。約53分の旅だった。これが日本の鉄道の歴史の始まりだった。その後30年間で日本では8000kmもの鉄路を敷き、日本中に線路を巡らせることになる。
実際の駅舎は関東大震災や戦争による空襲で何度も焼け落ちた。また大正3年(1914)には東京駅が新設され、それまでの烏森駅が新しい新橋駅となり、旧新橋駅は汐留駅として貨物専用駅となった。
話しを「走るレストラン」に戻そう。新橋横浜間位ならばよいが、これが延長され東京から大阪、神戸へと向かうとなると、時間節約のためにも食事を車内で摂る必要が出てきた。その結果、最初に山陽電鉄で始まったのが食堂車だった。
今は逆に食堂車もなくなり、且つ車内販売自体がなくなりつつあり、世の中の変化には驚きすら感じるのでした。
今、汐留の高層ビルの中にひっそりと復元された建物が建っているのでした。(写真:C6)
(写真:C7)
(写真:C8)