「両国橋の賑わい」

「江戸の庶民の生活は楽だったか?46」
「江戸の橋と両国橋の賑わい」
江戸時代、江戸の町には多数の橋があったが、大川(隅田川)に架かる橋は、河口から「永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住大橋」があった。その中で最も賑わっていたのが「両国橋」だ。「明暦の大火」の後、「火除け地」として両国橋の両側は空地になり、そこが西詰め、東詰めの盛り場になったという。写真はそんな西詰めの賑わいを再現したものだが、江戸時代の活況振りがよく分かる風景だ。当時の盛り場といえば、「浅草・奥山」が一番だったようだが、「両国橋西詰め」も勝るとも劣らない盛り場だった。奥山は今の「浅草ロック」で江戸から明治大正昭和と東京一の盛り場だった。両国橋も深川と江戸の中心部を結ぶ大切な橋だが、写真右手に橋があり、その先が深川だ。橋の西詰めには広い火除け地があり、その両側に店が立ち並び、多くの人が闊歩している。店は芝居小屋、食物屋、遊戯場等々人々を飽きさせない趣向が立ち並んでいたと思われる。「永代橋」は忠臣蔵の討ち入り後、四十七士が高輪に向う時使ったのだが、本来ならば本所松坂町の吉良邸は両国橋の直ぐ傍だが、ここを使って高輪に向えば、日本橋や江戸城の前を通らなければならず、それでは幕府に対して不穏な試み(準軍事行動)だとの判断から遠い永代橋を使ったと言われている。「永代橋」は両国の「川開き」の花火見物の際、大変な人出があり、人の重みで永代橋が崩壊し千人以上の死者が出たことがあった。それにしても江戸は水運水路の街だったのだ。

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