「石川島今昔」

「石川島今昔」
永代橋の上から石川島佃島方面を観る。隅田川は永代橋の先で二つに流れが分かれる。そこにあるのが石川島と佃島だ。手前が「石川島」、IHIの名前の由来となった島だ。その後ろ側に「佃島」がある。今はご覧の通りの高層マンション群となってしまった。江戸時代、「石川島」には「人足寄場」が設けられていて軽犯罪者の厚生施設となっていた。ここで基本的には3年間働き、或いは技術を覚え、その後出所するという刑務所且つ更正施設の役割だったのだ。佃島の湿地帯を火盗盗賊改役長谷川平蔵が1790年に建議し埋め立てられたものだという石川島。石川島には嘗ての「石川島播磨重工業」で唯一残されたものがある。それは「石川島病院」だ。元々企業の病院として豊洲の東京ドックヤード内に設置されていたのが、移設されたものだ。幕末には幕府の海軍操船訓練所が設けられ勝海舟が責任者だったと聞く。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?51」
「江戸の盛り場」
江戸時代有名だった盛り場と言えば、「両国橋東西広小路」、「浅草寺境内の奥山」、「東叡山寛永寺門前の上野山下」の三ヶ所だったようだ。両国の広小路は既に何回かご説明したし、浅草の奥山は観音堂裏手にあり、今の六区のところだとお話した。寛永寺は徳川家の菩提寺の一つで、「上野山下」は今の上野広小路だろう。ここが幕末唯一江戸での戦闘があった場所で、ここから官軍が大砲を山へと打ち込んだところだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です