「壱岐の島」

「壱岐の島」
博多埠頭から高速船で約1時間、壱岐の島に着いた。玄界灘に浮かぶ島だが、行政的には長崎県に属している。経済的には福岡県だし、一番近いのは佐賀県だが、長崎県だとは知らなかった。ここに来るまでも小さい島がたくさんあるので実は驚いていたところだった。何の目的もなく、ただただぶらぶらと訪れた。この島も歴史上は大陸や朝鮮半島との交易で重要な役割を果たした島だ。驚いたことに意外に広い島なのだ。東西約10km、南北約15kmほどあるだろう。今は「海水浴」のお客さんが多いという。船が着いたのは南の郷ノ浦だったのでバスで北の勝本という漁港に行った。バスの中で小銭がなく札は一万円札しかないことに気がつく。運転手に相談したがどうにもならない。そこで郵便局はないかと聞いたら、運よく数十メートル先に郵便局があったので、降ろしてもらい千円札をCDで引き出して払った。助かった。このバス、乗客は殆どが老人だ。聞いてみると75歳以上の老人はどこまで乗っても地元のバスは100円均一だという。まあ1時間に1本ほどだが、それでも100円バスならば便利だし老人にとっては助かるだろう。病院も買い物も全てバス頼りだから。帰りは西側の海岸を通るバスに乗り、元の郷ノ浦に戻り、そこから更にバスを乗り継いで東の芦辺という港に行った。その途中、バスの待合所で定期観光バスがある事を知った。船の到着にあわせて出発するというのだ。しまった。知っていれば乗ったものを、今更言っても仕方ないが、失敗した。島に「賽神社」というのがあり、大きな「男根」が飾られていた。さて博多に戻り、急ぎ小倉へ。そして鮨の「もり田」で美味しい鮨を堪能した。そこで聞いたのだが、「ミシュランガイド」の福岡佐賀版が出たそうで、勿論「もり田」も載っているという。買い求めてみよう。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?54」
「天麩羅」
語源はポルトガル語の「テンペロ」が転じたもの。上方由来でそもそもは南蛮料理がその端緒。江戸で天麩羅の屋台が登場するのは寛永年間(1624年―1643年)の頃で、日本橋の魚市で魚介を串に刺して衣を付けて揚げ、立ち食いさせたのが初め。この頃はまだ「胡麻油」を使っていたので「胡麻揚げ」と呼ばれていた。野菜の天麩羅は「揚げ物」と言われていたという。
「鰻の蒲焼」
元禄年間(1688年―1704年)に上方で生まれた鰻の蒲焼は人気を博して全国的に広まり、江戸でも同様で宝暦年間(1751年ー1764年)の頃には「江戸料理」として定着していた。蒲焼は江戸城の前面のことをいう「江戸前」の呼称を冠せられ「江戸前料理」の起源ともなった。江戸前の鰻とは浅草川や深川辺りで獲れたものを指し、他の物は「旅鰻」と蔑称されたらしい。旅が付くから田舎鰻ということか?

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