「深川江戸資料館」と「松平定信の墓」

「深川江戸資料館」と「松平定信の墓」
清澄白河にあるこの資料館には多分10年振り位に訪れた。(写真:B1)
偶然昔の江戸の下町を再現した街並みを歩いていたら、一人の老人が来たので、ボランティアガイドだと思い話し掛け、ガイドをお願いしたら心良く引き受けてくれた。
深川は徳川家康が江戸の町を開いた時は、川向うの鄙びた土地、それも湿地帯だった。そこを埋め立てる一方で掘割を縦横に造り、水運の拠点や武家の下屋敷を置いたりした。また江戸の町が膨張するにつれて、深川も発展し、これまでお城近くにあった木場も移転してきた。そして江戸時代も終わりに近い天保年間の深川の一画、佐賀町の一部を実物大で建てているのが、この資料館である。(写真:B2)
(写真:B3)
当時の八百屋の店先だ。(写真:B4)
大根は練馬大根。当時はこのような細さだったという。また大根の向こうにあるのは柿だが、小さいものだった。(写真:B7)
今は品種改良で大根も太くなり、柿も大きくなった。
卵も売っており、一個20文、今でいえば約400円程度と高値だった。蕎麦が2x8=16文で約320円だから高い。(銭の価格は相場があったから変化した)
ここは今でいう「肥料問屋」だ。ここ辺りの豪商で土地持ちでもある。(写真:B5)
銚子沖で採れた大量の鰯は、地元で干され干鰯(ほしか)となり、船で利根川を遡り、荒川経由で江戸に持ち込まれ、深川で干鰯を煮て、出た油は魚油として最も安い照明用に使われ、残った干鰯は肥料として使われたが、これは一番高い肥料なので綿花製造用に使用されたという。道の先に「町木戸」がある。町木戸は午後10時頃に閉められる。(写真:B6)
長屋にも小さな木戸が付いていて、日没になると閉じられる。木戸の上には名札があり、それぞれの住民が分かるようになっていた。
「つき米屋」だ。(写真:B9)
玄米で米問屋から仕入れたものを搗いて白米にする店だ。(写真:B10)
江戸では庶民も皆白米を食べていたから、ビタミン不足の「江戸患い」と言われる脚気になってしまっていたという。特に参勤交代で江戸に出てきた田舎者の武士は、通称「浅葱裏」と呼ばれ、これは皆の羽織の裏が浅葱色(薄い青色)だったことから、これを着ているのは田舎侍と思われたのだが、彼らは江戸に出て来て漸く白米を食べ、その結果江戸患いになるのだが、国へ帰ると雑穀の生活になり治ったという。
米倉には俵で玄米があったが、写真が撮れていないので説明するが、俵の積み方は90度の角度を変えて交互に並べてあった。井桁状態だ。実は米は空気を通して、何度も積み直しをする必要があったという。そうしないと蒸れてしまい使い物にならなくなるのだという。
町木戸の左手に布切れがある。(写真:B11)
これは売り物の綿の生地だ。幅30cm、長さ60cmほどのもので、着物が破れたらこれで繕うためのものだという。それほど着物は大切にされていたということだ。
木戸番の番小屋の前で何か売っているのは、木戸番のアルバイトみたいなものだ。(写真:B12)
冬は焼きイモなども売っていた。
船宿の前だ。(写真:B13)
船宿では食事付きでの打ち合わせや談合が行われ、その後船で吉原に商人たちが乗り付けたという。(写真:B17)
ここは火除け地だ。明暦の大火の後、幕府はあちこちに火除け地を設け防火帯とした。火の見櫓もある。(写真:B16)
立札がある。これには時々の幕府の掟が書かれていた。(写真:B14)
「猪牙(ちょき)船」だ。(写真:B15)
現存する本物の船で、猪の牙のように鋭く尖っていて少人数での移動に非常に早く進めた。
屋台の天麩羅屋。(写真:B18)
江戸前の魚を揚げた串揚げだ。
屋台の蕎麦だ。(写真:B19)
お休み処。(写真:B21)
それでは長屋を見てみよう。基本は九尺二間の四畳半、一部屋だ。(写真:B22)
天井や押し入れはない。布団は風呂敷に包み部屋の角に置くだけ。
竈の上には空気抜けの穴が開かれるようになっていた。換気扇だ。(写真:B23)
ここは大工の独り者が住む。
三味線の師匠の住む部屋。(写真:B24)
敷いてある畳は住民が手配する必要があるという。(写真:B25)
ご主人を亡くしており仏壇もある。
共用部としては「井戸」がある。しかし深川は塩水なので飲み水は買うしかない。(写真:B26)
厠だ。(写真:B27)
糞尿は近郊の百姓が買い求めにやって来る。売った金は大家が色々な費用に使ったりしたので、貴重品扱いだ。
「つき米屋」の職人の部屋の入口に札があった。(写真:B28)
そこには「久松 いぬ」と書かれている。これは当時流行っていた「天然痘」が「おそめ」と呼ばれていたので、歌舞伎の「お染久松」に引っ掛けて、「久松はいないから、おそめはこなくていい」と病を嫌うゲン担ぎのものだそうだ。
街を鳥の目で見てみると。(写真:B29)
猫が屋根の上にいる。たまに鳴き声がする。(写真:B30)
(写真:B31)
下町深川の姿でした。

「松平定信の墓がある霊厳寺」
白河藩主であり、吉宗の孫であった定信は11代家斉がまだ小さかった頃に老中首座として「寛政の改革」を実行した。この「霊厳寺」に墓がある。(写真:B32)
江戸六地蔵の一つ。(写真:B33)
(写真:B34)
本殿だ。(写真:B35)
定信の墓。(写真:B36)
(写真:B37)
(写真:B38)
御三卿の一つ田安家の出で幼少時から英邁とされており、将軍に着く可能性もあったが、田沼意次らによって白河藩に養子に出された。その後田沼失脚後、将軍補佐として幕政を担当したが6年で失意のうちに失脚した。改革以外にも佃島に「人足寄場」を造り犯罪人の厚生にも尽くした。隠居後「楽翁」と称した。

「都内でも紅葉が」
近くの豊洲付近でも紅葉が進んでいる。(写真:C20)
(写真:C21)
都内の本格的な紅葉は今月下旬から来月中旬だろうが、いよいよ冬が迫ってきた。
来週は都内の紅葉の名所の一つ「六義園」に行って来ます。