「動物市」

3月1日(日)
ブハラからバスで聖地シャフリサーブスへと向かう。市内から郊外へ向かうとソ連時代の4階建てのアパートが続く。勿論エレベーターなどある訳がない。お年寄りには大変だろうなあと思う。農村部には広大な農地があり、春には綿花が植えられるという。さてこの国の土地は全て国有。農民は何をどの位作るかを申請して土地の割り当てを受け、借り受ける。綿花と麦は生産量が割り当て制になる。その他の作物や野菜、果物は自由に作れるし売れるという。更に進むと「ステップ」という草原になる。「サクサクル」という低灌木が植わっている砂漠だ。どこまでも広がっている。農村の家は土壁で屋根はトタン、物置小屋は土壁に屋根は草が植わった土、芝生のようなもので出来ていた。動物は羊や牛、馬、ロバ、鶏を飼っている。羊の肉が一番高く、お祭りの時に食べるのだという。ラマダン明けが最も消費が多いのだろう。喜捨の精神で富んだものが貧しい人に施しをするのがイスラムの原則だから。さて農村部を含めたこの国の問題点は3つある。まず全てはインフラによるのだが、第一に道路の未整備(高速道路はない、道はデコボコ穴だらけ)、第二に電力不足(たびたび停電が起こる)、第三が水不足(トイレに水が出ない。ホテルの風呂にお湯が出ない)だ。これらが解決されるにはまだまだ時間が掛かるのだろう。途中、パトカーに護衛されたコンボイが走っていた。石油タンクを4つに分けた鉄の構造物を運ぶトレーラー群だった。これがデコボコ道をノロノロ運転するから渋滞となってしまい、本来ならば2時間で行けるところが3時間も掛かってしまった。途中、日曜なのでバザールが開かれていたが、それも動物のバザールで牛や羊、ロバが連れてこられてセリにかけられていたが、大勢の人たちが集まっていて大変迫力があった。必死に逃げようとしているロバが哀れだった。シャフリサーブスのことを書く前に、まずはウズベキスタンの歴史を確認しよう。ウズベキスタンとはウズベク人の国という意味だが、大昔、イランから「ゾロアスター教」所謂「拝火教」が伝わり、その後「仏教」が伝来した。また「アレキサンダー大王」も侵入(BC329年)したし、8世紀には「イスラム教」が入り、また13世紀には「モンゴルのジンギスカン」が侵攻してきた。14世紀にこの地出身の「アムール・ティムール」が王朝を起てた。アムールはマハラジャ、王様の、ティムールは鉄の意味。その子孫がインドに渡り、16世紀にあの「ダージマハール」を造ったから、インドの王様の一部はウズベキスタン系なのだ。知らなかった。ティムールが造った宮殿で「アクサライ宮殿」というのがある。二つの50mもある塔の最上階に昔はアーチ状の連絡橋(多分20mはある)があり、その橋の上にプールを造り、4人のお妃に水浴びさせたというのだ。現代でいえば「マリーナ・ベイ・サンズ」みたいなものだろう。驚きの発想だ。水を上まで人力で揚げたかどうかは知らないが大変な苦労だったろう。勿論今は40数mの塔の下の部分が残っているだけだ。国土の60%が砂漠、20%が山地(パミール山脈)、20%が平野、農業国で綿花、麦、米を主力に、また石油、天然ガス、石炭、金、銀、ウランもあるという。学校は全てが国立で学費は無料。幼稚園は3歳から6歳でこれは義務化されていない。義務教育は小学校5年、中学3年、専門学校3年までで、その後の大学進学率はなんと85%だという。勿論奨学金もあるという。因みに大学の数は63校。気候は大陸性だから、夏は暑く、冬は寒い。春(3月から5月)と秋(9月から11月)がベストシーズンらしい。夏は40度、50度の世界だし、冬はマイナス40度の世界にもなるという。代表的は果樹、樹木は、杏子、桑、桜、リンゴ、モモ、アーモンド。漸くサマルカンドに着いた。疲れた。余談だが、例の墓石に写真を刻むのは実は機械ではなくて手掘りだということが判明した。手で写真のように濃淡をだし写実的に石に彫り込むのは職人さんの手作業だそうだ。恐れ入りました。サマルカンドに近づくと右手に山々が観えて来た。まだ雪が残っている。それにしても道路が穴ぼこだらけで酷い状態だ。幹線道路はまだしも田舎はどうしようもない。小船に揺られているみたいだ。だが、地元の人は人懐っこい。直ぐに手を振ってくれるし、会えば「ハロー」と声を掛けて来る。その笑顔が本当に素晴らしい。田舎道をロバに乗っている人もいるし、羊の群れを連れている人もいた。日々の暮らしは楽ではないのだろうが、決していじけず屈託のない生活をしているようだった。道路脇には白い花を咲かせる木があり、ほぼ7分咲きだったが、あれが杏子の木だったようだ。まるで日本の桜の時期のような光景だった。

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