「豪徳寺 三度目の正直」

「豪徳寺 三度目の正直」
コロナ禍に2度豪徳寺を訪れたが、いずれも門が閉じられていた。梅雨空の下、今回は漸く三度目の正直で開門していた。(写真:B1)
ここは譜代大名彦根藩「井伊家」の菩提寺でもある。また「招き猫」としても有名なお寺だそうだ。招き猫の話しは井伊家二代目当主「井伊直孝」が鷹狩の帰りに寺の近くの木の下で雨宿りしていた時、寺の白い飼い猫が手招きするので、木の下を離れて寺に向かうと、直後に雷がその木に落ちて猫により一命を助けられた故事によるという。「招福猫児」(まねぎねこじ)とこの寺では呼ぶという。なお、この直孝の法名に「豪徳」という文字があり、ここからこの寺が「豪徳寺」となった。直孝は関ケ原、大坂の陣で大活躍して家康より彦根30万石を授けられたが、ここ世田谷も領地であり、そのため豪徳寺が井伊家の菩提寺になった。譜代大名で30万石は破格待遇で、殆どの譜代大名は10万石以下である。そのため「老中」それも老中や老中首座よりも上の「大老」にも任じられる家柄となった。また、老中の登城時には刻み足(小走りで歩幅小さく1秒間に2歩程度で)で進むことが許されていた。他の大名は普通の歩きで登城するが、老中のみ刻み足が許されていたには訳がある。それは老中が緊急時に駆け足で走ると何事か起きたと思われる可能性があるので、常に老中のみ刻み足が許されていた。他の大名にとってはこの刻み足が憧れであったという。
境内は篠突く雨に濡れていた。(写真:B2)
三重塔があった。(写真:B3)
緑の木々が美しい。(写真:B4)
大きな香炉があった。但し書きがあり線香のみ入れるようにと書かれていた。(写真:B5)
紅葉があちこちにあり、また桜の巨木もあった。秋の紅葉が楽しみだ。(写真:B6)
ほうずきの色が鮮やかだ。(写真:B27)
ほうずきがこれまた緑に映える。(写真:B28)

「鐘楼」だ。(写真:B7)
「絵馬」は猫の絵馬が多い。(写真:B8)
「招福猫」。(写真:B9)
「仏殿」。(写真:B10)
「招福観音」。(写真:B11)
(写真:B13)
驚いた。この観音様の脇には実に沢山の招き猫があった。凄い数だ。(写真:B12)
(写真:B14)
(写真:B15)
灯篭にも猫がいた。(写真:B16)
三重塔の軒下にも猫の彫り物があった。(写真:B17)
日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」の猿ではなく、猫だった。
それでは「井伊家」の墓所に行ってみよう。ここからが墓所だ。(写真:B18)
歴代の藩主やその家族が葬られている。(写真:B19)
二代藩主直孝公の墓だ。(写真:B20)
彼は勇猛果敢で「井伊の赤備え」という上から下まで真っ赤な色の鎧を着て戦った。元々「赤備え」は武田氏の物で、徳川に敗れた武田の遺臣を家康が傘下に組み入れたことから、井伊家も赤備えになった。
「直弼公」の墓だ。(写真:B21)
(写真:B22)
ご存知「桜田門外の変」で水戸の浪士に暗殺された。当時は大老だった。雪の降る朝のこと、突然登城の列に切り込んできた浪士たちに対して、井伊家の家来たちは雪のために刀に「柄袋」を被せていたため即応出来ず、主人を討ち取られ、さらに首まで取られてしまった。
豪徳寺の境内の地図だ。(写真:B23)
由緒が書かれている。(写真:B24)
「仏殿」だ。(写真:B25)
(写真:B26)
落ち着いた雰囲気のお寺でした。