「江戸城」

「江戸城」
写真は大手門か観た「江戸城」だ。勿論模型だが、江戸東京博物館6階常設展示場にあったものだ。右手奥が本丸だ。意外に沢山の建物があったことが分かる。多分左手遠くには富士山も観えたはずだ。本丸天守閣は所謂振袖火事で消失しその後建てられていない。愛宕山から撮られた写真もあったが、込み入った江戸の町並みが写されていたが、軒を連ねる町並みは流石百万人都市の面影も見受けられた。江戸東京博物館にはぜひ行って見て下さい。お薦めです。まだ「大関ヶ原展」もやっています。

「さいたま歴史研究会5」
今回のテーマは「三陸大津波」だ。過去にも幾つもの津波があったようだが、歴史的に比較的記録が残っている「明治29年(1896年)大津波」を取り上げた。6月15日は旧暦では5月5日の端午の節句だった。地震が起きたのは、午後7時32分30秒で、釜石の東方沖約200kmでマグニチュード8.2と推定される。その時、大砲の音のようなものが2度聞こえたという。恐らく海底の地盤が崩壊した音だったのではなかろうか?36分後、津波の第一波に襲われる。ということは午後8時過ぎだ。もう辺りは恐らく真っ暗になりつつあったろう。だから津波の姿が実際に見えたかは分からない。津波は北海道から宮城県までの海岸を襲った。逃げた人もいたが、物凄い犠牲者が発生した。死者行方不明者は青森、岩手、宮城の3県で26360名、流出倒壊した家屋10143戸、津波の高さは大船渡付近で38.2mにも達したという。岩手県の被害が一番大きい。リアス式海岸が影響したのだろう。地震の事実が電報で中央官庁や新聞社に知らされたのが6月16日、新聞での報道は17日だった。東京日日新聞社の記者二人は16日の夜東京を出発し、汽車と徒歩で現地に入ったのが18日の夜だったという。そこから現地の悲惨さと生き残った人からの話しを聞き、東京にレポートし新聞が掲載したのが28日だから、実に時間が掛かっている。その間、救助隊も軍隊や日赤、大学病院、公立病院等から派遣される。新聞には累々と横たわる死体や倒壊した家屋の写真も掲載されていた。今回の2011年3月11日と規模は余り変わらないが、被害が多く出たのは建物が殆ど木製であったことや、津波を信じていなかった人が多くいたことなど悪い要因が重なったのだろうか?何度も起きている津波なのに過去の事例が生かされていないと痛切に感じた。

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