「無花果のお菓子」

「無花果(いちじく)のお菓子」
クロアチアのトロギールという城壁に囲まれた街で買った土産が「無花果」をベースにしたケーキだった。この地方、意外と無花果の木が多く、その実も沢山食べられているという。さて帰国したら、新潟の友人から地元「新発田市」の銘菓「しばたのいちじくパイ」というのを貰った。無花果がパイの中身に入っているものだった。友人は私のホームページを観て、贈ってくれたのだが、900回記念と言うことで大変ありがたく思っている。無花果のお菓子は余りにみないし、だが美味しかった。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?71」
「シーボルト」
バルカン半島を旅行した時、ご一緒したスーさんが読んでいた本が「シーボルトのむすめ」というものだった。そんなことで今回はシーボルトのお話しだ。
彼が出島商館医として来日したのは文政6年(1823年)7月、27歳だった。長崎に「鳴滝塾」を開き、週に一度出島からやってきて医学講義と診療を始めたという。そこで鳴滝塾に全国から医学・蘭学を志す者が集まってきたという。文政9年(1826年)には江戸で将軍にも拝謁した。シーボルトはドイツ南部のヴェルツブルグの名門の家に生まれ、大学で内科、外科、産科の学位をとり、オランダ陸軍外科少佐に任官している。日本での蘭学の医学書はオランダ語を訳したものが使われていた。宇田川玄隋が寛永年間に約した「西洋医言」という和蘭対訳医学用辞書などから約されていたらしい。シーボルトはある意味日本医学の大恩人だ。蘭学による西洋の医学を日本に定着させたとも言える。数年前に佐賀の武雄温泉の鮨屋でシーボルトに教えられた医者の子孫が未だ地元で医者をしているのを知ったが、未だ綿綿とシーボルトの業績は残されていた。

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