「入梅と紫陽花」

「参勤交代」(浅田次郎著「一路」より参照)
江戸時代に行われていた参勤交代だが、もともとの発想は江戸に駆け参じる軍事行軍の意味があったという。所謂「すわ、鎌倉」だ。約300の大名の半数が江戸に在府し、半数が国許にいる訳で、それらが1年おきに交代で江戸まで行軍する。従って江戸には常に半数の大名による防衛軍がいることになり、徳川家は安泰ということになる。またこの制度は一石三鳥の恩恵があったという。まずは参勤交代の旅で街道の宿場や沿道にお金が落ちる経済的効果。次が軍事行軍であるので武士の軍事訓練が出来る。そして江戸には大名の妻と子供たちがいるので人質の役割になり、謀反を起こせない。更に実際には江戸と国許との間で一年毎の行き来で江戸の文化が国元にも伝わるという効果もあっただろう。参勤交代の行列が通過する時、武士以外は土下座しなければならないので、先触れが大名の通過を事前に連絡する。従って一般庶民は戸を閉ざして家の中で大人しくしていれば土下座する必要もなかったそうだ。加賀藩の行列などは4000名もいたのだから通過だけで何時間も掛かり、それでは庶民は堪ったものではない。だから行列通過時の街道は誰もいなかったという話しを聞いたことがあった。参勤交代は江戸に着く日時を厳重に守らなければならず、指揮をする者はさぞかし大変だったろう。映画の「超高速参勤交代」でも遅れてはならずとして走るが、遅延して不行き届きとして処罰されては困るからだった。加賀藩は基本的には越後廻りの北国街道から中山道に入り江戸まで119里を12泊13日で走ったという。また当時の旅の原則は「暮六つ泊まり七つ立ち」、即ち夕方6時までには宿に入り、翌朝4時には宿を立つのだ。

「江戸城の大きさ2」
前回江戸城の大きさは、内郭で約30万坪、外郭で約150万坪であったと申し上げた。これに匹敵するのは加賀前田藩位で江戸には本郷の上屋敷の他に3つの屋敷があり、合計32万8千坪あったという。

「入梅と紫陽花」
スーパーの売り場に梅酒造りの材料が沢山置かれていたと思ったら、東京地方の梅雨入り宣言がなされた。所謂「入梅」だが、正に梅酒の季節になったということだ。鬱陶しい日が一ヶ月余り続くと思うとがっかりする。だがこの季節結構夏祭りも多い。博多の勇壮な「祇園山笠」や、築地の「波除神社」の祭りもこの時期だ。銀座の片隅に密かに「紫陽花」の花が咲いていた。誰が植えたのか?これからは紫陽花と雨の季節だ。

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