「忠臣蔵史跡を訪ねる」

「忠臣蔵史跡を訪ねる」
今から20年前に出向したのが会社更生法で更生途上の会社D社で、事務所が両国にあった。そこで旧本所松坂町にある「吉良邸跡」を知った。何度か来ていたが、改めてそれこそ15年振り位に訪れてみた。いつまでも新型コロナウィルス騒ぎに振り回されていても仕方がないので、空いているバスを利用して向かった。おう、もう「白モクレン」が咲いていた。(写真:D1)
ここは両国小学校、校庭には誰もいない。そうだ休校になっていたのだった。(写真:D2)
以前にはなかったのが「道標(しるべ)」だ。(写真:D3)
(写真:D4)
ずいぶん変わったなあ。「吉良邸跡入口」だ。(写真:D5)
元々吉良邸は鍜治橋に屋敷を拝領していたが、赤穂浪士の討ち入りの噂が出ると周囲の大名屋敷から苦情が出て、吉良は幕府により元禄14年8月に息子の上杉弾正の屋敷に預けられ、9月からここ本所松坂町に移ってきた。
吉良邸は敷地が坪数2550坪、建屋は母屋が388坪、長屋が426坪と広かった。表門は東側にあり、裏門は西側にあった。討ち入りは元禄15年(1702年)12月14日に行われた。当時将軍は五代綱吉であった。色々な意見があったようだが、というのも幕府の基本は忠義であり、正に大石ら赤穂浪士は忠義の士ということになる。しかし、儒学者らの反対で切腹ということになった。
吉良邸は高家の格式を表す「なまこ」壁と黒塗りの門が当時の面影を偲ばせる。由来が記されていた。(写真:D6)
その後徐々に家が建ち並ぶようになったので、昭和9年に地元の人たちが「みしるし洗いの井戸」を中心にして土地を購入、東京市に寄付し、その後墨田区に移管され現在に至っている。
それでは中に入ってみよう。昔とはガラッと変わってしまっていた。(写真:D7)
屋敷の図面があった。(写真:D8)
大石らの名前があった。(写真:D9)
吉良町甚句の扇。(写真:D10)
関係者の名前一覧。(写真:D11)
北斎の浮世絵、討ち入りの場面だ。(写真:D12)
「松の廊下での騒動の絵」(写真:D13)
「永代橋での引き上げの絵」(写真:D14)
「吉良上野介義央の座像」(写真:D15)
領地の菩提寺に寄進されていた像の複製だそうだ。
「みしるし洗いの井戸」(写真:D16)
吉良の家来たちで死亡した人たちの墓。(写真:D17)
吉良邸跡の由来。(写真:D18)
菩提寺の写真。(写真:D19)
吉良の遺品等。(写真:D20)
吉良家は清和源氏の流れで先祖は足利佐馬頭義氏。江戸城における一切の典礼を司る高家の地位にあった。
地元の三河の吉良では評判の高い領主だった。本人は13歳で四代将軍家綱に謁見し、後に京への使者を任され立派にその大任を果たしたことから以後有職故実の家柄として重用された。また地元の施政も好評で、治水工事で築いた「黄金堤」などが有名だという。
邸内には神社も祀られていた。(写真:D21)
入口の石碑だ。(写真:D22)
兎に角殆ど以前にはなかったものばかりで時代の変化に驚かされた。流石に今はないが、私が子供の頃には12月と言えば忠臣蔵の映画が必ず公開されていたものだった。
吉良邸跡近くには「回向院」がある。ここは振袖火事と言われる明暦の大火での死者を弔った場所だ。以前鼠小僧次郎長の墓を見に行ったこともあるし、長野県の善光寺の出開帳にも出掛けた記憶がある。いずれにしても300年以上前の出来事が日本人の心に深く残されている場所でした。