「皇居乾門通りの桜」

『J REPORT 2019年4月第2週』
「リタイアメント・ノート 10年10か月目」
「VOL.1102号 SINCE AUG.12th,1983」
「皇居乾通りの桜」
4月1日午前11時40分、新元号「令和」が決まったのをテレビで見てから家をでた。(写真:R1)R1
向かうは皇居だ。桜田門から入る。(写真:K1)K1
門のところにも桜があった。(写真:K2)K2
そのままお堀端を進む。(写真:K3)K3
二重橋前には外国人観光客が多い。(写真:K4)K4
更に進む。(写真:K5)K5
坂下門から入場することになる。(写真:K6)K6
坂下門の脇の桜。(写真:K7)K7
お堀端にも桜が。(写真:K8)K8
宮内庁前だ。(写真:K9)K9
この広場前にもたくさんの人がいる。(写真:K10)K10
富士見櫓が見える。ここからだとかなり高いのが分かる。(写真:K11)K11
この櫓は明暦の大火で焼け落ちた天守閣なきあと実質的な天守の役割を果たしてした。
広場周辺にもたくさんの桜がある。(写真:K12)K12
乾通りの桜を見ながら進もう。(写真:K13)K13
(写真:K14)K14
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(写真:K16)K16
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(写真:K23)K23
天守台に登る橋がある。いつも登っているので今回は中止した。(写真:K24)
それにしてもこのお城、嘗ては江戸城、あるいは千代田城と呼ばれていたが、流石徳川幕府の居城だけあって広いし大きい。今は皇居となっているが、家康が征夷大将軍になって、ここに住み全国に睨みをきかせたわけだが、これほどの城は当時も現在も存在していない。だが、幕末の戊辰戦争時には宝の持ち腐れとなり、江戸は戦いの場にならなかった。それは何といっても「錦の御旗」、即ち「朝敵」という汚名を着たくなかったということだろう。当時もそして今も天皇の権威は凄かった訳だ。日本人は皆陛下のしもべであり、「臣 何某」と名乗るのが、陛下に対する尊敬と敬愛なのだと私は解釈している。
(写真:K25)K25
(写真:K26)K26
(写真:K27)K27
乾門だ。ここから外に出る。(写真:K28)K28
(写真:K29)K29
堀の大きさにも圧倒される。(写真:K30)K30
竹橋駅で毎日新聞が号外を配っていた。(写真:R2)R2
時代は平成から令和に代わるのは1か月後だ。