「輝ける御代の優れたる江戸、日本橋」

「さいたま歴史研究会―23」
「輝ける御代の優れたる江戸、日本橋」
今回は2000年にドイツで発見された絵巻物のお話し。明治初期に日本からドイツに渡ったものと思われる。
理由や由緒は別にして結論から申し上げると、絵巻物は長さ12.3m、縦43cmの巨大なもので、神田辺りが出発点となって日本橋を越えるまで、今で言う「中央通り」を東側から見た絵巻なのだ。描かれたのは文化2年(1805)、作者は「山東京伝」。店は全てその当時の店をそのまま描いているという。また人々は別に描かれたものをこの絵の中にはめ込んで行ったものと思われる。現物はドイツの「ベルリン東洋美術館」が所蔵している。実物の写しの又写しなので鮮明でない点はお許しあれ。
まず最初の絵は「本白銀町」と記されていて今川橋辺りかと思われる。(写真:N1)N1
江戸の町の特徴的なものが右上に見える。所謂「町木戸」で木戸の右側が「自身番屋」、木戸の左側が「木戸番」だ。「自身番」には、昼は書役が一人だけだが、夜は番人が3人から5人詰めていたという。人別帳の整理管理、消火活動用具の管理や防犯が任務で幕末には江戸市中で994箇所あったという。区役所の支所や交番のようなものか。また「木戸番」は町内の木戸の開閉を行い、夜10時になると木戸は閉められた。費用は共に「町入用(町会費)」から支出した。自身番の前の人をご覧下さい。①の部分では武士がいて、地面に何かを並べている町人がいる。これは「雪駄直し」の場面だ。どうやら武士の雪駄の紐が切れたのだろうか?
絵は右から(北から)「自身番」「町木戸」「木戸番」、次が「合羽屋」、「書物問屋」店の前にまで書物を出して売っている。次が「仏具屋」だ。仏具屋の前、②は刃物の「研ぎし」だ。右端の③は「女二人旅」の旅人と付き添いだ。江戸時代もこの頃は女性の旅も盛んに行われていたことが伺える。②の研ぎしは次の絵にもある。(写真:N2)N2
絵の店は右から「指物屋」、「不明?」、「仕出し屋」障子に吸物や丼の文字が見える。次の店は「京糸物、木綿太物屋」だ。④は色々な物売りの姿が描かれている。「棒手振り(ぼてふり)」は魚や野菜などを売り歩く。キセル売りもいる。板を売っているのか運んでいるのか?
次の絵。(写真:N3)N3
店は、右から「ロウソク屋」、「入れ歯屋」(柘植の木で作られた木床義歯、今で言う歯科技師)、「呉服屋」、「印判屋」、「紙問屋」と続く。
⑥は武家が駕籠で通っている。数字⑥の上に家の中を覗き込む人がいるが、これが「按摩」だ。⑤の親子は手習い所に向かう親子でこれが初めて通うのだろう。親が机を持っている。これと全く同じ構図が清国北京の絵にもあるというから万国共通の姿だろう。
次の絵。(写真:N4)N4
店は「笠、雪駄屋」、「墨筆硯屋」、「寿司屋」、「白粉屋」、「鏡師」となる。⑦は道場へ通う武士だろう。お玉が池の千葉道場も近い。鏡師は金属の板を磨いている姿が見られる。
「本石町3丁目」の絵。(写真:N5)N5
「煙草屋」、「自身番」、「木戸番」、「袈裟衣屋」、「絹紬木綿屋」と続く。
次の絵。(写真:N6)N6
「蔵、「蔵」、「地唐紙屋」、「笠、雪駄屋」、「薬種屋」と続く。
⑧は「飛脚」だ。二人一組で走る。先走りは多分「どいた、どいた」と人々を掻き分けたのか?江戸市中だと32文、江戸ー大坂だと2両。⑪は「茶店」だ。⑨は「町駕籠」、⑩は大店のご婦人たち4人がどこかへ行くようだ。供の下男もいる。芝居見物にでも行くのだろうか?
「十軒店」。(写真:N7)N7
「京糸屋」、「雛人形屋」が二軒並ぶ。⑬は店の前にも品を並べていて人が集まっている。
⑫は「車椅子」に乗る人がいる。多分「江戸わずらい」所謂「脚気」の人だろう。
左端は「帳面屋」。
木戸があるということは町が変わることだ。(写真:N8)N8
二階に人がいるのが「お茶漬け屋」。間口が広いのは「書物屋」。次が「糸物屋」。
⑭は「婚礼の嫁入り道具」を見せながら運ぶ姿だ。
⑮は「按摩」さん。
「本町2丁目」。(写真:N9)N9
「呉服屋」、「薬種屋」、「居酒屋」と並ぶ。⑰は顔を隠した二人がいて周りを人が囲んでいる。これは「瓦版売り」だ。なぜ顔を隠しているか?役人に捕まる可能性があるからだ。それは幕府批判なのどのネタだと捕まえられるからだ。一人が口上を述べ、一人が売っている。
⑲は仕出し物を担いでご婦人方に従っている。恐らく花見などに行くのだろう。
(写真:N10)N10
⑱は「旅人」だ。雨合羽に三度笠。「玉屋」とあるのは「紅白粉屋」。隣は「呉服屋」。
⑯はちょっと珍しい。「鳥餅」を付けた長い棒を持っているのは、鷹を飼育するための餌となる鳥を獲る人だ。江戸市中では鳥を獲ることは基本的に禁止されていて、許しを得た者しか獲れなかった。
「室町3丁目」。(写真:N11)N11
「木戸」、「合羽屋」、「薬種屋」、「薬種屋」、「仏具屋」。⑳は「ねずみ捕り」用の薬、所謂「石見銀山」を売る人。
(21)は「回り髪結い」だ。
(写真:N12)N12
「薬種屋」が続く。「帳面屋」、「薬種屋」、「糸物屋」。
(22)は実は写真から外れてしまったのだが、長い棒を二人で担ぎ、その間に「古着」を 乗せている。「古着屋」だ。
「室町2丁目」。(写真:N13)N13
「算盤屋」の次が「三井越後屋」、今の「三越」だ。間口はさほど広くはないが、奥行きが見えない位長い。越後屋は「現金掛け値なし」の販売で、普通の店は節季毎の支払い、即ち掛売りだったが、越後屋は違った。それと仕立てもやるので、値は張るが超特急だと、採寸して縫い上がるまでに4時間というのもあったという。勢州松阪出身の三井家、越後屋の名前の由来は先祖が「越後守」であったことによるらしい。(注:松阪は紀州藩の飛び地)
余談:松阪は紀州藩の飛び地だが、伊勢神宮のあるのは幕府の直轄地「山田」。当時ここの山田奉行だったのが大岡越前守忠相だった。まだ吉宗が紀州藩主だった頃、紀州藩の飛び地と山田奉行との間で揉め事があり、その解決に辣腕を振るった大岡を吉宗は知っており、吉宗が八代将軍になった時に大岡を江戸町奉行に取り立てたというエピソードがある。これにより大岡は名奉行となった。彼はその後更に昇進し、寺社奉行(大名格の役)にまで上り詰めた。
(写真:N14)N14
道の反対側も越後屋だ。越後屋の次が「墨硯屋」、「上絵屋」、「書物屋」、そして「小道具屋」が続く。小道具屋の役割は武家の家財道具を供給することで意外に数が多い。需要があったのだろう。
(23)は「金貸し」だ。坊さんが二人の手代を連れて歩いている.彼らは金貸しなのだ。金利は「といち」即ち10日で1割の利率だから高利貸だ。寺には賽銭やら何かとお金が入るのでそれを運用して更に設けていた。坊主丸儲けの類だ。余談:江戸時代には「カラス金」というのがあり、朝100文借りて夜に101文返すという小口金融もあったという。これも10日ではやはり1割となる暴利だった。無担保だから仕方がないだろう。
(24)はこれもご婦人方がいる。どこへ行くのか?甘いものでも、美味しいものでも食べに行くのだろうか?後ろを笠を持った付き人が歩く。昔から男は仕事で働いて、女は遊んでいた?そんなことはないのだろうが、余裕のある人たちは優雅な生活を送っていたのだろう。
次は今も現存する店「木屋」が見える。(写真:N15)N15
場所は現在は反対側に移っているが、これらの絵の中で現存しているのは「三越」と「木屋」だけだ。ここには小道具屋が並ぶ。木屋は今も有名な刃物屋だ。
普請中の家がある。(写真:N16)N16
(25)は「木遣り」を謳いながら作業をする職人たち。
「室町1丁目」。(写真:N17)N17
「雪駄、笠屋」、「薬種屋」、「小道具屋」が3軒。(26)は「貸本屋」だ。本を担いで家々を回り、本を貸していた。
棒手振りや物売りの姿が多くなってきた。(写真:N18)N18
「菓子屋」、「漆器屋」、「味噌屋」、「乾物屋」、「紙問屋」、「小道具屋」と続く。
さあ、大勢の人がいる。ここは「魚河岸」だ。(写真:N19)N19
江戸の台所だ。魚も野菜もある。江戸では「魚河岸千両」「吉原千両」「歌舞伎千両」と言われたほど流行っていてお金が落ちる場所だった。「結納屋」、「小間物屋」、「八百屋」、「酒屋」、「八百屋、乾物屋」と続く。
さあ遂に日本橋まで来た。(写真:N20)N20
日本橋川の両岸には近郷近在から来た船が沢山いる。
「日本橋」。(写真:N21)N21
橋をよく見てもらいたい。橋桁が外に飛び出している部分に小さな屋根があるのがお分かりか。これは何か?日本橋は長さ約50m、火災などで何度も焼失したが、架け替えられた。橋は中央部が湾曲した太鼓橋になっているが、橋は巾の部分も実は中央部が高くなっていて、雨水は両側から川へと流れ落ちるようになっていた。従って橋に降った雨が落ちる桁の部分に腐り防止のための小屋根が設けられていたのだ。これは実物の半分が復元させられている「江戸東京博物館」でご覧になるとよく分かる。
「橋の南詰め」。(写真:N22)N22
「五街道」の起点となる場所だ。今もそこには道標がある。江戸時代には「高札場」となっていて、幕府や奉行所の色々な指示命令等が書かれた札が架けられていた。因みに五街道とは、「東海道」「中仙道」「甲州街道」「日光街道」「奥州街道」だ。
この長い絵巻物には、実に1700人の人間、内女性200名、犬24匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹がいる。この絵が描かれた翌年に大火事があり、絵の店屋は全焼してしまった。実に貴重な資料でした。