「投込寺」
江戸時代が好きな私が今回訪れたのは通称「投込寺」と言われた「浄閑寺」(じょうかんじ)だ。浄土宗の寺だという。地下鉄三ノ輪駅で降りてJR常磐線方面に向う。数分でお寺に到着。(写真:浄閑寺1)
(写真:浄閑寺2)
由来がかいてある看板があった。(写真:寺の由来)
ちょっと長いがよく分かるので全文を掲載する。「浄閑寺は、浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、『投込寺』と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、『生まれては苦界、死しては浄閑寺』と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(1743)から大正十五年(1926)にいたる、十冊の過去帳が現存する。遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。『今の世のわかき人々』にはじまる荷風の詩碑は、このような緑でここに建てられてものである。」
このように近くにあった吉原遊郭の遊女達が葬られた寺なのだ。(写真:浄閑寺4)
(写真:浄閑寺5)
(写真:浄閑寺6)
(写真:浄閑寺7)
遊女達の殆どは貧困から売られて来た女性たちだったと思われる。親に捨てられ、或いは飢えによる口減らしのために、また借金のカタに売られてきたのだろう。悲しい悲しい物語が一見華やかそうな遊郭には隠れていた。線香を求めて彼女たちの冥福を祈った。
それでは新吉原と言われた嘗ての遊郭方面に向う。三ノ輪からも東京スカイツリーが見える。(写真:スカイツリー)
「日本堤」は通称「土手通り」と呼ばれている。(写真:土手通り)
商店街に思わぬものが掛かっていた。それはこの地が「明日のジョー」の発祥の地だという暖簾だった。そういえば土手通りの看板の隣はジョーの像だった。(写真:明日のジョー発祥の地)
懐かしいね、明日のジョーは。学生時代嵌まったマンガだった。「吉原大門」までは1kmもないだろう。バス停で3つだ。そこには有名な店がいくつかある。まずは「桜肉」即ち馬肉の「中江」だ。(写真:中江)
何度が食べに来たことがあるが、馬刺しほか馬尽くしの店だ。(写真:中江の暖簾)
馬刺しの寿司もある。次がいつも行列の店「土手の伊勢屋」だ。天丼の店だ。今日も10人ほどが並んでいた。(写真:伊勢屋の暖簾)
ここの天麩羅は兎に角でかい。丼からはみ出しているのだ。だからまず丼の蓋を外し、その蓋の上に天麩羅を移動させて、そして天麩羅とご飯とを分けてから食べる。こうしないと食べられないという天丼なのだ。(写真:伊勢屋全景)
美味しいことは間違いない。但し必ず並ぶことは覚悟されたし。
「大門」の交差点、今日は吉原には行かない。交差点から下る道は「五十間道」と呼ばれた90mほどのS字カーブした緩やかな坂道だ。日本堤からは大門が見えないようにS字になっている。(写真:大門)
昔はここに菅笠を貸す店もあったという。顔を隠して人目を避けて吉原に行く人用だったという。小さな柳がある。これが有名な「見返り柳」だ。当然何代も経過している柳だろうが、吉原からの帰りの客が遊女を思い出して振り返る場所だとして見返り柳と名付けられたという由緒ある柳だ。(写真:見返り柳)
兎に角台風一過の暑さと湿気で汗だくになった。丁度バスが来たので乗った。涼しい。