「ナスカの地上絵、木」

腰の痛みを耐えながら「南米」に旅行したのは今年の3月だった。最後の目玉は「ナスカの地上絵」。どうしてこんなものをこんなところに造ったのだろうか?疑問が疑問を呼ぶ。そして感じたことはやはり「貧困」ということだった。「ペルー」は元大統領のフジモリ氏でも分かるように日本人移民も多いところだ。だが、行ってみて実態は貧富の差が大きな低開発国だったということだった。「銅」などの天然資源はあるものの、主だった輸出物は少なく、頼るは「観光」なのだろう。世界一行きたいという観光地「マチュピチュ」を抱えるペルーだが、貧困との戦いはまだまだ続くのだろう。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?21」
「町木戸」
江戸の町には「木戸」があった。町と町との境にあり、これは大きな門と扉がセットになったもので、そこには「木戸番」が常時いて、出入する人々を監視していたという。木戸は「夜四つ」(午後10時頃)から「明け六つ」(午前6時頃)までは基本的に締められていた。ということになっていたが、そんなことでは不便でしょうがない。夜遊びも出来ない。と言った具合で「建前は建前」として実際には木戸は閉められていなかったというのが真実らしい。落語の「時そば」では、蕎麦を食べ終えた男が夜鳴き蕎麦屋の親父に16文の代金を払うのに銭を出して「ひ、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー、今なんどきだい」「へい、ここのつでぃ」「とー、ひー、ふー、みー、、、」と数え、九文目を出さず、一文分得をするというお話しがある。この時の九つとは午後12時、真夜中だ。真夜中に屋台の蕎麦を食べる客がいるのに木戸が締まっていては話しにならない。こんなことからも実質的に木戸は開いていたことが分かると言うものだ。更にもう一つ「お江戸、日本橋、七つ立ち、初のぼり」という歌があるが、これは旅人が朝の「七つ」即ち午前4時頃に日本橋を旅立つというものだ。これでは木戸が閉まっていては通れない。従って、木戸は開けられていたということが分かろうというものだ。幕末に来日した外国人が江戸の火事の跡を撮影した写真が残っているが、道路に日本の大きな柱が二本づつ、あちこちに立っているのが写っていた。それが「木戸」の残骸だったらしく、あちこちに木戸の柱部分だけが焼け残っていて、その他、家は全焼して見渡す限り焼け野原になっていたから驚きだった。木戸の数の多さには本当にびっくりさせられる。

「長屋」
以前にも書いたが「九尺二間」というのが普通の縦割り長屋だ。間口九尺(約2.7m)で奥行き二間(約3.6m)という広さだ。だから、土間を含めても6畳間の広さと言うことになる。狭い長屋で大半の庶民は暮らしていたのだ。「大家と店子は親子」という言葉が落語などで語られるが、「大家」は所謂現代の「管理人」で、「店子」は勿論「借家人」。「地主」が別にいて、これは土地建物の所有者で大家に管理を任せているのだ。大家は店子の面倒も見るが、「家賃」を取り立て、「どぶ板」を直し、「井戸浚い」をさせ、「雨漏り」を修理させる。一方で共同便所から出る「汚わい」を肥やしとして農民に売る代金は大家のものになるらしい。

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