「名刀」

「名刀」
上野の国立東京博物館の常設展で出会った刀の一振りに眼が行ってしまった。それが備前国の「長船盛光」は、康光と並んで「応永備前」と称され、室町時代初期の代表的な刀工の作品だった。この太刀はやや寸法が短く、室町中期以降に多くみられる打刀(うちかたな)に近い。地鉄が映りの立った板目肌で、刃紋(はもん)は盛光の特色である「互(ぐ)の目丁子刃(めちょうじば)」を焼いていると但し書きに書かれていた。日本刀は本当に美しい。

「江戸の庶民の生活は楽だったか?48」
身分制度の厳しかった江戸時代、旗本の主人は、千石以上は「御前さま」、200石以上が「殿さま」、200石以下は「旦那さま」と呼ばれていたという。一方武家の奥方は、200石以上が「奥さま」、それ以下が「ご新造さま」だったらしい。従って時代小説に出てくる町方の不浄役人と言われていた同心は「旦那さま」、その妻は「奥さま」と呼ばれたという。さて、日本人の蕎麦好きは昔からだったが、蕎麦の由来は奈良時代に中国から朝鮮を経て渡来したという。鎌倉時代には蕎麦粉を餅にして焼いて食べていたという。室町時代には蕎麦粉を練った蕎麦掻きを汁で食べていた。江戸時代初期に入って細長い蕎麦が出されたという。当時は繋ぎを使っていなかったというが、享保年間(1716?35)、八代将軍吉宗の頃からは繋ぎに小麦粉を使うようになったという。庶民は今のファーストフードに近い感覚で「立ち食い蕎麦」や「夜鳴き蕎麦」を食べていたようだ。江戸後期にはかけ、もりだけでなく、「天麩羅、花巻(もみ海苔を振りかけたもの)、玉子とじ、しっぽく」なども出ていたようだ。因みにかけ蕎麦は16文だった。

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