「吉原を訪ねて1」

「江戸の庶民の生活は楽だったか?49」
「吉原を訪ねて1」
浅草からバスに乗って、「土手通り」の「吉原大門」のバス停で降りる。そこから南にだらだらとした坂があり、個の坂は「S字」型をしている。ここが「五十間道」だ。その昔、吉原返りの人たちが、この坂を登りきったところにある柳の前で、思い出したように吉原大門方面を振り返ったことから、この柳は「見返りの柳」と呼ばれていた。今も、数世代経ているが、土手通りにその柳が植えてあった。名残惜しげな見返りの柳は風情があった。「吉原」とは、言わずもがな幕府官許の江戸で唯一の「遊郭」だ。「遊女3000人」とも言われた所謂「岡場所」だ。「明暦の大火」後、日本橋葦原町から移された。京都の「島原」、大坂の「新町」と並び、「日本三大遊郭」と称された。

「再び、隠れ姓について」
以前にも一度「隠れ姓」が江戸時代にもあり、武士階級以上でないと「名字帯刀」が許されていなかったが、一般庶民にも「姓」はあったと書いた。それでは日本での「姓」はいつの時代からあったのか?を考えてみる。それは国の成立にも関わる話しなのだ。7世紀後半から8世紀始めに出来た律令国家「日本」には、中国大陸の文明的制度が導入され、「戸籍制度」が設けられ、全ての人民に「氏名(うじな)」と「姓(かばね)」が付けられ年齢を含めて戸籍に載せた。この戸籍を元に、水田を与え、税金等を徴収する制度が作られたという。即ち国家成立のために国民を管理することを目的に「国民皆姓」とでも呼ぼうか、姓が付けられ、「戸籍」に登録され、税の徴収がなされたのだという。その後も基本的にこの考え方が踏襲されていったという。それを武士階級が政権を獲ったのちに、身分階級を確立させるために「士農工商」の内、武士にのみ名字帯刀を許したと考えるべきだと思う。その後も姓は「隠れ姓」として名乗れないだけで実際にはあったのだ。昔の武士は名字をしばしば変えた。例えば秀吉だが、中村、木下、羽柴、豊臣と出世するたびに変えている。百姓以下は表向きは名字を名乗れないものの、それでは困るので「冠婚葬祭」の時には「隠れ姓」を使っていたという。結婚式に名字がないのは確かに変だ。「なにのたれべいの息子、なになに」と名乗らなければおかしなものになってしまう。当然隠れ姓は使われていたのだ。

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